第1章 異郷

 魚介と海藻で仕立てたスープにひとたび口をつけると旨味が舌に染み込んでいく。ふう、と隣に座る男が息をもらす。普段使うことは滅多にない箸で沈殿する白い麺を掴もうとするも、上手くはいかない。男は、やはりというべきか、するすると麺を啜っているので元から手先が器用なのだろう。もしくは何度か食べていたのかもしれない。なぜなら、今回の食事はこの男が指定したからだった。

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 あれは次元戦艦で港町リンデから各自の持ち場へ帰還する最中だった。
 どうも、セレナ海岸にて何やらいわくつきな斧を持った魔獣の不審情報が絶えないということで、たまたまスクールの講義もなく暇だったジェイドの他にはツバメ、アザミ、ノマル、セティーがメンバーとして出向くこととなった。通常、何かしらの依頼を受ける時はその時代に即した仲間が対応するのだが、今回はアルドがたまたまスクールにいた際に依頼を受けたため、次元戦艦へ向かう道すがら、偶然会ったジェイドとセティーが今回メンバーとして選ばれていた。
 アルド曰く、どうやら禍いの魂に取り憑かれた斧は一本だけではなく、情報が上がる度に対処しているらしい。物騒な地帯だとジェイドは思うも、無事に魂を成仏させ、すっかりと抜け殻となったかっこいい斧(とアルドは言う)を戦利品として獲得できたため、任務は終了した。
任務が終了すれば、あとは解散である。
 まずは東方のメンバーであるツバメとアザミの故郷である巳の国イザナへ向かう。甲板で景色を眺めるアルドとノマルとアザミの盛り上がる様子を背に、ジェイドは艦内へ下りる。休憩室に入ると、ツバメと猫(ツバメは妹と言い張るが)のスズメ、セティーとその相棒のレトロ、クロックの先客がいた。
大型の手裏剣に巻き付けた赤紐を結び直していたツバメは、毛羽立ちが気になるのかクロックに替え時の時期を相談している。時折にゃあんと甘え声を発しているのはスズメで、セティーの足元でじゃれついている。加えて、顔の周りをしきりに旋回するレトロにも構うことなく、セティーは端末機器の画面を眺めていた。
輪に加わる気もなかったジェイドは隅に置かれた椅子へ座る。すっかり汚れきった槍を腰から抜き取った布で拭い始めると、白黒の縞模様の境目が見えなくなっていく。突き刺したばかりの魔物の血はすでに凝固し、布の繊維に引っ掛かり勢いよく破れた。舌打ちが思わず出る。そして冷や汗。
根付いた習慣というのはなかなか抜けきれないものだった。どうしようもない己への、行き場の無い苛立ち。無力感、といえばいいのか。いつの頃からか精神に巣食っていたそれは、父親の、いや父親ではなくなった男の顔をしていた。失敗作との烙印は今もなお爛れるほどの熱を持ち、内臓も骨も肉も焼き尽くす。灼熱で以って絶対零度の鎖を砕いた今でさえも、じりじりと余すことなく燃え続ける。ジェイドは知らぬうちにもはや何の動物か分からなくなってしまった布を強く握りしめていた。
 鋭い視線を感じる。室内を見渡すと深海のごとき青とかち合った。既視感がある、と考え始めた瞬間、居心地の悪い感触がぞろりとジェイドのはらわたをなぞりあげ、吐き気を少し覚える。耐えかねて、乱暴にセティーから視線を逸らす。

ポーンと低音の電子音が響く。
『合成鬼竜だ。もうすぐAD300年東方ガルレア大陸に到着する。下艦する者は準備しろ』
「おや、もうですか。この速さを忍術にも応用したいですね」
 相談の結果、新しい紐に巻き直したツバメはくるりと手裏剣を回す。やはり新しいものだと気持ちが新たになりますね、と満足したようだった。ツバメに呼び戻されたスズメは名残惜しくセティーの元から離れる。
「セティーはこれからどうされるのですか?」
「実はノープランでね。久しぶりにオフとなると戸惑ってしまう」
「では折角ですし、東方の料理で舌鼓を打つのはいかがでしょう。私たちと一緒に下艦するというかたちで」
「それは良い。だが皆を下ろして解散となる場合、自力でエルジオンに戻るのは手間だからな……」
 セティーのつぶやきに、クロックが続く。
「AD300年ガルレア大陸からの帰宅となりますと、定期便に乗船してミグレイナ大陸へ渡り、そこから幻影の森にある時層へ行き、次元の狭間でようやくAD1100年エルジオンに着く、というルートになりますが」
「次元戦艦だと一瞬でびゅーんと行けるのにな〜」
「私的利用はなるべく避けたいから仕方がないさ」
 ふむ、とツバメは顎に手を当てる。
「そういえば以前、未来東方のいーじあにあるお店で食事をしたのですが、なかなかの物でした。特にうどんが素晴らしいです。同じ時代であれば帰るのもそこまで手間はかからないのでは?」
「たしかに時代は一緒だが……」
「セティー」
 突然、ぐるりとクロックの左アームが二周回転した。セティーは手元の端末に目を落とし、そしてしばらく思案する。
「ちょうどいい。腹も空いてきたところだ」
 クロックとレトロに目配せをし、セティーはジェイドに近づく。吐き気は治ったジェイドだったが、先ほどのこともあり思わずびくついてしまう。対してセティーは気には止めず、いや、そのように装い、なるべく平坦で刺激のない声色でジェイドを誘った。
「ジェイド。うどんを食べに行かないか?」
 その時、ジェイドの頭の中には二つの疑問が生じた。
 うどん。ジェイドにとっては聞き慣れぬ単語だったが、食べに行くという述語を用いたということはうどんとは何かの料理なのだろうと推察できた。一つ目の疑問は無事解決する。しかし、なぜ食事に自分を誘うのかという二つ目の疑問についてはいまだ謎のままであった。
「……人違いしているぞ」
 頭を回転させ、たどり着いた答えは面倒事。何かは知らないがどうでもいい。巻き込まれたくないのでその場を離れようとする。
「なりません、ジェイド」
 扉の前にツバメが現れる。しかし声は後ろから聞こえる。見やれば、手で印を結んだツバメが立っている。
「分身する必要があったのか?」
「特には」
「……」
 今度こそ出ようとすると腕を掴まれる。
「最後まで人の話を聞け。すぐ自己完結するのはやめろ」
 掴んだ主のセティーは溜息をつく。レトロもそうだそうだとアームでジェイドの頬をつつく。
「……そんなにうどんとやらが食べたいのか」
「たしかに絶品ですからね」
「データーベースを参照しても、該当する店舗の看板メニューであるうどんの評価は星四つです」
「いいな〜、そんな美味しいもの食べられて〜」
「にゃあ〜ん」
 好き好きに繰り広げられる周りの発言に皮肉もかき消され、ジェイドの眉間の皺はますます深くなっていく。見かねたセティーは手を挙げた。
「みんな静かに。ジェイド、この後の用事は?」
「……講義がある」
「本日のジェイドの講義はありません」
「おい、何で知っている」
「ハッタリです。一瞬間がありましたので」
「……」
「決まりだな」
 かくして、セティーと相棒の二体、そしてジェイドは空中城郭イージアへと降り立ったのである。アルドやノマルが良かったなと溢れんばかりの笑顔で手を振っている姿がなんとも眩しく憎々しいとジェイドはつくづく思った。

******

 ネオンで染められた煌びやかな大都市に例の店があった。店内は賑わっており、至る所で麺を啜る音が聞こえる。カップルなのだろうか、若い二人客が大半である。場違いなのではとジェイドは思ったがセティーは気にすることなく案内された奥のテーブル席へ向かう。当初の目的どおりうどんを頼めばすぐさま自動小型プレートがうどんを載せて机に降り立ち、熱々の湯気が客人を出迎える。
 レトロとクロックはというと、情報収拾がてら探索として別行動となった。普段の騒がしさを今ほどあれほど恋しいと思うのはないだろうとジェイドは内心溜息をつく。それほどセティーとは気心が知れた間柄ではなかった。
「これがうどんだ。小麦で作られた麺につゆと呼ばれるスープをかけている」
「となるとスープパスタみたいなものか」
「ラウリー麦とは違って人工食品だけどな」
 いただきますと行儀良く手を合わせて箸をつける姿を見習ってジェイドも食べようとするものの、なにせ箸を使うのは初めてなので上手くいかない。するりと箸からすべり落ちたかと思えば、今度は力の入れ過ぎで真っ二つに切れてしまう。セティーはというと涼しい顔をしてするすると麺を啜っているので少し腹立たしい気持ちになる。
「やはり難しかったか」
「フォークを貰ってくる」
「……いや、箸を貸してくれ」
 立ち上がろうとするジェイドをセティーは制した。意図を読めなかったが言う通りにすると、セティーはジェイドのうどんを器用に箸で挟み、口元へ持っていく。
「……何の真似だ」
「見たらわかるだろう。ほら、口を開けろ」
「開けるわけがないだろう」
「麺が伸びて折角のうどんが不味くなってしまうぞ」
 セティーはここで少し眉を下げた。ジェイドが罪悪感を抱くには十分な角度で。
「……」
「大丈夫だ。誰も見ていない」
「チッ。覚えていろよ……」
 目を瞑って口を開く。最初に箸の硬さが触れ、次にうどんの柔らかい感触が入ってくる。それを舌で捉えて啜る。
「美味しいか?」
「……ああ、忌々しいほどにな」
「それはよかった。まだあるから安心しろ」
 なぜか乗り気なセティーに気圧され、まるで給餌のようにジェイドはうどんを食べ切った。

******

 羞恥の限りを尽くしたと機嫌が悪くなったジェイドの要望もあり、早々に店を後にした二人は街をぶらついていた。
「さすが星四つなだけある。また食べに行くか」
「今度は自分で食べるからな」
「……一緒に来てくれるのか」
「……ッ!」
 見ればあの泰然とした顔がある。先ほどからどう足掻いても結局セティーの希望通りに事が進んでおり、ジェイドの中でセティーが得体の知れない人間として苦手に感じ始めていた。
「さて、この後どうする」
「俺は帰る」
「お前一人では帰れないだろう。せっかく天下のイージアに来たんだ。観光でもどうだ」
「俺が観光を楽しむ人間だと思うか?」
「たしかに」
「……」
「そういえば時の女神の教会があるらしい」
「俺は無神論者だ」
「ならばやめておこう。俺も異教の神に祈りを捧げる人間でもないからな」
「そういった類のことは信じていないかと思っていたが」
「どうかな」
 昼間でも夜のように暗く、太陽代わりのまばゆいネオンが白々しく二人を照らす。喧騒は沈黙を掻き消さず、逆に一層と影を濃くしていく。

 口火を切ったのはジェイドだった。
「あの店で何があった」
「何が、とは?」
「はぐらかすな。いくら同時代でも特別な用事がない限り、ミグレイナとガルレアの行き来はまず無い。うどんなんぞが食べたいという理由のみでお前がここを訪れるはずがない」
「……」
「となると、お前の場合だとCOA案件なんだろう。おそらくターゲットが客としていたのか、あるいは店の人間だったのか」
「鋭いな」
「誰でもわかる」
 セティーは一瞬目を丸くし、すぐに例の平坦な表情に戻る。
「お前の推理通り、以前から追っている人物があの店にいるとの連絡が入った。レトロとクロックは俺と行動していると目立つから別行動で出入口の監視。そして俺は店内でターゲットの行動を確認していた」
「俺を誘った理由はなんだ。肝心な捜査中にヘマをこいたらどうする」
「カムフラージュさ。情報が入った時に近くにいた人間で同じ時代だったのはお前、ジェイドのみ。食事となると時代背景が強く出るから慣れているほうが目立たない。大陸の違いについてはちょうど東方支部KMSで開催される研修の時期と重なるからそこまで加味する必要もない。お前は無口だから発言に関しても安心だ」
「俺には目立つようなことをされたが」
「言っただろう? カムフラージュと。店内にいた客の雰囲気を思い出してみろ」
 そういえば二人組の、なおかつ密接な距離の間柄の客が多かったことにジェイドは気づき、血の気が引く。
「……まさか」
「最近、メディアでも取り上げられるほど話題のデートスポットがあの店の近くにあってな。その帰りに空腹を満たそうという考えになっても不思議ではない。となると、一人客より二人客の方が店の雰囲気に溶け込めるし、関係性が私的に映れば映るほど不信感は和らぐ」
「……」
「実はお前が麺に苦戦している時にターゲットの視線がこちらを向いたんだ。だから逆に利用した。さしずめ、出張に恋人を同伴させる浮かれたKMS社員と、異郷での食事に慣れないその恋人といったところか」
「いらんキャプションをつけるな……!」
「悪かったな、利用して」
「……もう俺を巻き込むな」
 知らないうちに仲間であるこの男と恋人になっていたのだと、事実ではないにせよ気が滅入るには充分だった。
 セティーが口を開きかけた瞬間、端末機器が鳴る。すまないと詫び、ジェイドに背を向ける。
「クロックか。ターゲットは? ……わかった。今から俺も向かう」
 通話が終わり、ふたたびセティーがジェイドに向き直る。
「ということだ。無事に任務は終了した。協力感謝する」
「協力した覚えはない」
「さて。今から現場に向かうが、また迎えに来る。帰りはCOAご自慢の高級ソファ付きシップだから楽しみにしていてくれ」
 襟を正し、ネクタイを調整する。規律のように無駄のない流れで身を整えるその姿に、祈りのようなものをジェイドは感じ取った。今度はセティーが視線に気づき、しかし先ほどとは違って親しみのような暖かさを纏った目で見返す。
「お前は気を害すだろうが、なかなか面白かったぞ」
「悪趣味だな」
「何とでも言え。……あらためて、二人で食べに行かないか。今度はイザナの国で」
「また捜査のカモフラージュか?」
「COAの捜査でもさすがに時空を越えたりはしない」
 そこではじめてセティーは静かに笑みを浮かべた。この男も笑うことがあるのだとジェイドは衝撃を受けたが、そんな胸中も知ることなくセティーは煌めく金色の髪をかきあげる。
「だが次元戦艦の私的利用は望ましくないんじゃなかったのか」
「たしかにそうだ。なら、エアポートに開いている時層から次元の狭間へ行き、そこから幻影の森、リンデで定期船に乗ってようやくイザナに到着、というなんともまわりくどいルートはいかがかな」
「くだらん冗談だ」
「ジョークならもっと面白いことを言っているさ。では行ってくる」
 セティーはジェイドの肩を叩き、軽快に走り去っていく。徐々に遠ざかる背中を眺めているうち、ジェイドは既視感の正体に辿り着きそうだったが、首を振って忘れた。代わりに、すっかり黒ずんでしまった腰の布をふたたび抜き取って両手で掴み、裂け目を広げる。細切れになるまで裂き続け、そして投げ捨てようとする。しかし指は開かず、布であったものを掴んだままだった。そうして、すかした男と騒がしい二体が戻ってくるのを、ただひたすらじっと待っていた。

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