第10章 出帆
湖上に立ち昇るしじまに、息を潜め、水紋が立ち消えるまで目を瞑れば、元へ戻れるのではないかと思った。一歩が、その方向は、生まれるだろう足跡は、至るべきものか判然としない。
しかし、沈黙を破るように上体を右へ傾け、新たな波紋を生み、広げたのは、預けたくも預かりたくもあったからだった。
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数日前に遡る。
次の休日、空いているかと連絡をした。
程なくして届いた返信に、安堵と緊張の入り混じった息を吐き、セティーは自室のソファに深く沈む。
とうとうその時がやって来た。
到来が現実的になり、見守っていたレトロとクロックにも緊張が伝わる。上体を起こし、丸い球体の相棒たちを見上げた。
「あいつと大事な話をするのに適した場所が一向に思いつかない。案が欲しい」
「静かな場所とかがいいんじゃない? それと、ガンマ区画だと知り合いに鉢合う可能性もあるかもね」
「ポンコツの意見を採用すると、郊外区画が候補として挙げられます。人目の無い場所のためリラックス効果が期待できるでしょう」
相棒たちのアドバイスを参考に選んだのは、ガンマ区画から離れたプレートにある小さな遊園地だった。
トト・ドリームランドの盛況に倣い、新たにエルジオン各所でテーマパークが開業された。二人が降り立った遊園地もその一つで、規模は小さく入園者数は奮わないものの、土地代の安い区画に建設されたためなのか、それとも足が地についた堅実な営業方針が功を奏したのか、経営難により十年前に閉鎖した本家を他所に細々と運営を続けている。
「入園ゲートを見た時は休園状態かと思ったが、意外と客はいるんだな」
園内は全体的に色彩に乏しく、コーヒーカップやメリーゴーランドといった遊具も例外なく色褪せており、子どもが遊ぶよりも行き場の無くした大人たちのために作られた、と説明されるほうが納得のできる風合いであった。傍目からみれば明日廃業してもおかしくない寂れ具合だが、運営を続ける程度の需要はあるのだろう。
ジェイドの言葉通り、まばらではあるが入園者はいた。家族連れや友達同士で遊びに来た一行はもちろん、一人客も何人かいる。それなりに愛されているようだ。猫を模した素朴なデザインのぬいぐるみを大事そうに抱えた子どもを見て、買ってやろうかと試しに聞く。
「ほしい、と言うとでも思ったのか?」
「可能性はゼロではない。たとえばサキへの土産用にとか」
「であれば自分で金を出す」
二人はそう広くもない園内を練り歩く。レトロとクロックは自宅で待機をしている。演出で花火がほしい時はいつでも駆けつけるからねとレトロは言い、爆散するあなたを回収する汚れ仕事を私に負わせるつもりですかとクロックは小言を言った。かれらへの土産にしようとセティーは猫の耳がついたカチューシャを二つ購入した。それを見たジェイドが戸惑う様子を見せたので、土産用だと言えば、そうかと背中を向ける。
途中でメリーゴーランドに乗った。白馬の群れが二列となり円状に連なる。ただ回るだけ、時折床の回転に合わせて上下に動作する白馬は長年幾多の人間をその背中に乗せてきたのだろう、園内に置かれた他の遊具に違わず所々薄汚れ、塗られた白よりも地の色が剥き出しとなっている。
ふと、隣の馬に乗ったジェイドに振り向く。やはり無表情であった。傍から見れば自分もそうなのだろうとセティーは思う。時刻は正午に差し掛かっていた。
円環から抜け、昼食を取る。近くにあった売店でそれぞれ購入したサンドウィッチに食らいつく。
ベーコンの肉汁がパンに染み込み、間に挟まれた新鮮なレタスが、軽快な音を立てて口の中で砕ける。都市部でもない区画で困ることといえば食事が挙げられるが、幸福にもあたりを引いたようだった。
同じく、隣でローストビーフサンドを盛大に頬張るジェイドも感想は同じらしい。鋭い犬歯がパン生地、そしてビーフを突き刺す。二人は黙々と、人造湖に面したベンチで食事に勤しむ。
「なかなか旨いな。このためだけにまた来園してもいいくらいだ」
「交通費が痛いがな」
「俺が出してやると言っているのに」
「引率されている子どもじゃないんだ、それぐらいはさすがに自分で払う」
音を立ててサンドイッチに噛みつき、残りをひとくちで平らげた。口周りに付着したグレイビーソースを乱雑に拭き、ジェイドは包紙を丸めてくずかごに捨てに行く。その間に、先ほどと同じ売店でセティーはコーラとポップコーンを購入した。戻ってきたジェイドに差し出すもコーラだけ受け取ったため、ポップコーンはそのままセティーの首から下げられることとなった。
「次はどこへ行こうか」
そうだな、とジェイドはコーラを飲む。しかし特には思いつかないようで、目の前の湖に眼を向けていた。
首を動かさずとも一目でほとりを眺め渡せるその人造湖は、前日に降った雨の影響か茶褐色を薄めた水色をたたえていた。乗降場には白鳥を模した数隻のボートが塊となって揺れている。園内でも一際人が少ないように見受けられるのは、園の中心部から外れたエリアのため多少歩く必要があること、手入れの行き届いていない風景にそこはかとなく不気味な印象を受けるからだろうとセティーは推測した。落ち着いて話をしたい時にはうってつけの場所だ、とも。
そうして二人はスワンボートに乗ることになった。
退屈そうに待機する係員に案内され、一羽の白鳥と引き合わされる。他の鳥と同じように、白い塗装が剥げたまだら模様の白鳥は、それでいて、優美さが欠けることなく乗員をひっそりと待つ。窮屈な体を折りたたんで体内に潜り込み、横に並び合って二人は座る。
ひとまず湖の中央へ向かおうと、ハンドルで舵を取りながらゆっくりとペダルを漕ぐ。湖畔を離れ、簡素な造りの乗降場がどんどん小さくなる。他に乗客はいないため、接触の心配も無く湖心へ辿り着いた。足を止め、セティーは息を吐く。
「この前は見苦しいところを見せた。その、家まで送ってもらって」
「別に構わん」
微かな風が髪をなびかせる。何かの燃え殻のような色は、遥か遠くの地でうず高く積もる雪にも似ていた。右眼にかかり、鬱陶しげに指で払い退けるもすぐに覆われる。赤と白が交互に立ち現れては消えていく。
「あの時に約束したこと、覚えているか?」
指の動きは止まる。白で止まる。髪で隠れ、セティーの側からは表情を窺い知ることは出来ない。
「今日の誘いは、それも含めてだ」
「……この前の雪山でああは言ったが、もういいんだ」
ゆっくりと頭を横に振り、続きの言葉をさえぎり、代わりに紡ぐ。
「信頼に足る人間ではないと、認めたくなかった。お前の優しさを手放しで喜んで馬鹿みたいだと思ったんだ。だから、あの言葉は当てつけだった」
「それは誤解だよ」
「今はわかっている。伝えないことも誠実の一種だと。だから、無理して教えなくてもいい」
湖面が紋状に波打つ。強く吹いた風によって白鳥は湖上を目的もなく滑り出す。二人は慌ててペダルを漕いで舵を取るもままならず、乗降場から反対側のほとりへ行き着く。手入れの行き届いていない垣根は風食で色褪せ、積み重なった枯れ草は湖の下に沈澱し腐って溶け消えるその日をゆっくりと待っている。
忘れられた場所で、二人は無言だった。静かな呼吸だけがボートの中に響き、遠くで聞こえる野鳥のさえずりも別の世界のことのように感じる。
言外に匂わす、進展を止める言葉に納得の気持ちがあった。今の心地よく無理のない関係、気楽で気の置けない間柄、別の港へ出帆するには躊躇うほどのまどろみ。想定されうる嵐、隠してきた秘密、伝える予定こそしてはいたが時期を検討せねばならなかったほどの事情。新品のように綺麗で汚れのない面だけをその眼に映したい。大事な、大切な相手であれば尚更だ。見栄だと切り捨てるには切実が有りあまるほど、互いの存在は日常に侵食している。
風が止むのを待ち、水紋が湖面へ現れなくなった時、あったはずの形を思い出すことは出来るのだろうか。何事もなかったように湖面に広がる水紋は徐々になだらかとなり、次第に平坦な水面へと変じる。
しかしそれはまやかしであった。
正面に向けていた上体を右へ傾ける。浮力の変化が伝わり湖面はふたたび静かに波を描く。
「いや……それでも、いつかは言うべきなんだ。それに、聞いてほしい。ずっと誰かに聞いてほしかった。俺のことを」
大切だから伝えない、煩わせたくない願いと同じほど、それでいて伝えたいという真逆の渇望が言葉となり、訥々と語られる。
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それなりに裕福だったと今は思う。しかし必要以上の贅沢に浸ることはなく、すべては正義を全うするために父は政治家として奔走していた。母は父を陰ながら支え、尊敬していた。自分がかれらの子供であることが誇らしかった。それは今でも変わりない。
平和だった。あの日が来るまでは。
何の変哲もない平和そのものであったあの空間は、突如武器と共に侵入したものどもをきっかけに幕を閉じる。遊園地で購入したフォトフレームは砕け散り、和やかに笑う三人は踏みにじられる。丁寧に埃なく掃除された机、時間をかけて家族で選んだ壁の色、思い出の調度品。家族で作り上げたあの団欒は見る影もなく、ただそこにあったことが辛うじてわかるあの光景は、今でも澱として残り続ける。
謂れのない罪を着せられ、獄中で死んだ父。人権を剥奪された者が行き着くスラムにて、気丈に振る舞うも無理が祟り病床に伏せた母。最後まで、かれらは自分のことよりもひとりきりの息子を心配する目で見つめていた。
いつ、どこで、普通とされる丁寧に補正された道から踏み外すのか、それを避けることはほぼ不可能だ。
頑強な要塞で守られているかのような日常は、ある日あっけなく崩れ落ちる。瓦礫に押し潰され、故意的な悪意、もしくは止めようのない狂気に虐げられ、けれども決死に這いずり回ってここまで来たのだ。血反吐を吐くような日々は未だに脳裏に鮮明に焼き付いている。
過去は消えない。切り口から血は止まろうとも、傷痕は残るように。不意によみがえる苦痛を、平然と飲み下せるのはあとどれほど精神を摩耗した時だろうか。
そして平常を装えるようになったところで、それが平穏であるわけではない。
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日が落ちつつある。昼間の暖かさは消え去り、肌寒い冷気が辺りに漂い始める。
枢機院のことは伏せ、これまでのことをセティーはゆっくりと語り終えた。
「以上だ。聞いていて楽しいものではなかっただろう? ……もっとも、すべてを語ったわけではないけれど」
ずっと誰かに聞いてほしかった。
ここまで辿り着いた。幸せだった日々をよすがとして。自分を愛してくれた父と母。
幸福のかたちは、たしかにそこにあった。今もなお、心の中で灯っている。
そしてこの灯りを誰かに見てほしかった。一緒に。存在を語り合いながら、幸福の輪郭を、今一度確かめたかった。この男と。人一倍、気の優しいあたたかな男と。
すべてを語ったわけではないことの表明は、言葉にしていない事柄自体を伝えることは、その事柄の内容をつまびらかにはせずとも、そこにあるという存在を知らせる。
言えないことがある。
捉え方によっては不誠実であるこの表明に疎むことなく、ジェイドはその赤い眼を真っ直ぐ向けた。
「言ってくれてありがとう」
うん、と返した声は存外に幼かった。しかしセティーは取り繕うことなく、ボートの内部に視線を落とす。塗装が剥げた箇所。風色か接触か判別しない。しかし、たしかにそこには歴史があった。痕跡は欠落の形をしている。失い、擦り減らし、恨み、そして同じ数だけ得て、信じて、立ち上がった。
そして、あらたに手に入れたい。まだ、伝えていないことがある。
曖昧にわだかまる望み、その輪郭の名前をセティーはついに認めた。今までの関係につけられた名前を総取り替えするのではなく、新たに追加されるものとして。
「……ムードは大事にするタイプか?」
これからする話と、期待されるべきシチュエーション、ロケーションは到底釣り合わなかった。それこそ、楼閣にある豪奢なレストランや、夕陽を鮮やかに反射する海辺などが適している。間違っても、寂れた遊園地ではないだろう。であれば質問ではなく、次の誘いの口上を述べるべきだった、とセティーは気づく。それとなく次に仕切り直す機会を明瞭となった情動によって逸してしまった。
「俺たちの始まりは最低だった。今更だな」
しかしジェイドは変わりなかった。望ましくない状況に引けを取らない、情緒のない返しに思わずセティーは笑う。そうだったな、悪かった、と言い、決意を固める。
「あとひとつ、言いたいことがある。とはいえもう勘付いているはずだが」
「見当もつかん」
「まさか、嘘だろ」
「冗談だ」
「……お前って冗談言えたんだな」
気を改めて、セティーはジェイドに向き直った。高鳴る鼓動が体に響く。二人を覆う白鳥の心音だと思うほど、大きく。
「友情面でも、恋愛面でも、俺はお前のことが好きだよ」
「そうか」
意外にも淡々とした様子のジェイドに、セティーは拍子抜ける。尻目に、ジェイドはセティーの首から下げた容器に手を突っ込みポップコーンを取り出す。コーティングされたキャラメルの甘さに眉を顰めるも、吐き出すことはしなかった。
「……返事は?」
「入園者が糖分過多にならないか心配になる」
「とぼけるのが上手くなったもんだ」
「良きお手本が身近にいるもんでな、セティー」
「俺はとぼけたことなど一度もない。ただ普通にしているだけなのに、周りが勝手にそう捉えるだけだぞ」
「イージアの飯屋で俺の知らんうちに捜査に巻き込んだくせによく言う」
あれは悪かったと反省していると釈明するセティーに、ジェイドは微細な口角の動きで返す。
「好意をわかってはいた。だが、感情なんてものは一瞬で裏返る。俺の一挙一足でお前に失望されたくなかった。そうなるくらいなら、現状維持でいいと思った」
自分が一番理解している。自分のことは。。まるで夢から醒めた子どもがする、微かな絶望の色。過去が、近しい人間たちの死が、断絶がこの青年の心を巣食っており、そしてそれから逃れは出来ない。
「だとしても、俺は失望なんてしない」
本心だった。
「……ありがとう。お前は、たしかに必要のない嘘は吐かない。だからお前の言葉は信じられる」
「え?」
ゆっくりと視線が動く。見返す眼からは靄がかった印象は立ち消え、代わりに強靭な意志が宿り始めている。どれほど惨めにその身が突き飛ばされようとも、何度も何度も立ち上がる、不屈の色だった。
「俺はお前の誠実さに惹かれたんだと思う。だから、……同じ気持ちだ。セティーも同じ気持ちでいてくれて嬉しい」
乗降場の方向へ白鳥の嘴を向け、ジェイドはゆっくりとペダルを漕ぎ始める。遅れて、セティーも足を動かす。陰鬱な垣根を通り過ぎ、相変わらず退屈そうに佇む係員の姿が次第に大きくなる。
「付き合う、ということでいいんだな」
「嫌なら別にいい」
言っていないだろそんなこと、とセティーが反論するも、ジェイドは前を向いたままだった。しかし、白髪から垣間見える耳が赤く染まっているのを捉え、自分の言葉が確実にジェイドの中に広がっていることの実感を得た。
「今日は良い日だ」
「ああ、そうだな。なにせ、イザナでの偽装交際から晴れてようやく本当になったんだからな」
「……ジェイド、あれからまだ根に持っているのか?」
「想像に任せる」
引き波を立て、終わりに近づく。次におとずれる始まりを、眩しく感じ、そして歓待をしなければとセティーは強く思った。
「これから話すことがたくさんある。それこそ、何から始めるべきか途方に暮れるぐらい多くのことを。俺たちはまず、あらためてお互いのことを知ろう」
「と言うと?」
「相手にどれほどのことを求めるのか、好きだけれどもしたくないことの共有とか」
セティーの言葉に、ジェイドは頷いた。
「なるほど、たしかにとても大事なことだ」
乗降場へ辿り着く。桟橋に乗りつけ、仲間の白鳥とふたたび合流する。先にセティーはスワンボートから降り、中に居るジェイドに向き直る。そして手を差し出した。
「最初の質問だ。握手は?」
「セティーとなら、嫌いじゃない」
「恋人繋ぎは?」
「……じき慣れるはずだ」
ジェイドは手を握り返し、立ち上がる。体内を抜け出した二人は並び立って歩き、それぞれの指を交差させる。熱を持って汗ばむ手のひらは、しかし疎むことなくそのまま握り合ったままだ。
あれから、ここまで至ることができたのは運が良かったからとしか言いようがない。悪意に塗れたスラムで手を差し伸べられなかったら。間諜の打診がなされなかったら。そのいずれとも欠けていたならばとうの昔に路地裏の隅で生涯を終えていただろう。そして、今現在も不確かな足場の上に立ったままなのだ。
であれば、日常が穏やかであれるよう最後まで足掻いてみせる。あともう少しで沈む夕陽の、しかし最期まで力強くある陽射しに二人の背中は射抜かれる。
セティーは静かに笑みをたたえ、隣に歩く不愛想で無口だが気の優しい青年とのことを考えた。これから何があっても、自分たちは何度だって立ち上がれるだろうとの確信を得て。