第9章 確信

 爪先に空の酒瓶が当たり、そのまま遠くへ転がっていく。意味を成さず、煙草のヤニでくすんだ禁煙のプレートを横目に、セティーは奥へ向かっていた。
 廃棄物が路上にそのまま打ち捨てられ、放つ異臭にどことなく懐かしさを覚える。道を塞ぐ錆びれたコンテナを退かし、入り組んだ細い道を潜り抜けた先に、目的地はあった。シティの喧騒から遠く離れ、静かにしかし煌々と佇むそのバーに用があった。
 床で伏せていた機械式の犬がセティーの姿を認め、文字通り尻尾を振った。続いて、カウンター席にいた飼い主が振り返る。慣れ親しんだ、あの不敵で親愛の滲む笑顔がセティーを出迎える。
「よお、ひさしぶりじゃねえか。退院おめでとう」
  
 ******

 一つ分空けるか、それとも離れたところに座るか。逡巡ののち、隣に座ることにした。
「バージンブリーズを頼む」
「お、断酒中か?」
「あんたの前ではな」
 言うねえ、と嬉しそうにハーディーは笑う。調整したはずのペースがゆっくりと理想的なラインから外れていくのを感じる。自分のことを生意気で手のかかる弟のように扱うこの男を、セティーは感じるむず痒さと共に少し苦手にしていた。
 ほどなくして、目の前に朱色の液体が差し出される。呷れば、クランベリーの酸味とグレープフルーツの苦味が混ざり合った清涼感が喉を通る。 
「で、俺と仲良くおしゃべりしに来たんじゃないだろ? 残念なことに」
「ある程度検討はついているはずだ」
 体を寄せるグレイのなめらかなヘッドを撫で、ハーディーを見つめる。相変わらず飄々として掴めない人だ、とセティーは苦々しく思う。
「あいつに変なことを吹き込むな」
「変なことって、人聞きの悪い」
「事を急ぎすぎて、蔑ろにしたくないんだ。あんたが勝手に言った事も、いずれ俺の口から伝える予定だった」
「いずれ、ね」 
 大袈裟に表情を崩し、ハーディーは軽快に笑った。どこまでも上手だ。
「悪い悪い。老婆心ってやつがしゃしゃりでちまった。まあそれはさておき、お前ら慎重すぎなんじゃねえのか」
「それで何が悪い?」
「一方的に守られることの居心地の悪さ、賢いお前ならわかるだろ?」
 返答をしなかったのは、答えはイエスだったからだ。ふたたびバージンブリーズに口をつけるも、一度目のような爽快感は薄れていた。
「寂しいもんだぜ、大切な奴が大事な話をしてくれねえのはな」
 こちらの姿を映す碧眼はずっと誠実だった。本性はこちらにあるのだろう。昔と変わることのない慈愛。セティーはしばらく目を瞑った。
「……義兄さん、少なくともあんたとの間には秘密はないよ。それに、伝えられることとそうではないことが俺にはある。わかるだろ」
「ああ、そうだな。嫌になるぐらいにな。まったく、上司が代わったってのによ」
 あーあ、とハーディーは大袈裟にのけぞり、座ったまま椅子の上で回転した。三周し、一つのボックス席の方角で止まる。
「お前さんもなんか言ってくれよ」
 すると、背中を向けていた水色の髪の女性が振り返る。頭頂部に咲く青い花びらが揺れ、ふわりと散った。

 ******
 
「こうして兄さんと一緒に食事をするのも久しぶりだね」
 ジェイドは妹のサキと共に、エルジオンガンマ区画の外れにある洋菓子店、ラヴィアンローズへ訪れていた。人気と謳われるだけあって、レジカウンター前は行列ができていたものの、時間制限を掛けているためかテラスエリアは落ち着いた雰囲気だった。
 サキは新作であるタルトフリュイとラウラティー、ジェイドはブレンド珈琲とガトーショコラを頼んだ。ジェイドとしては飲み物だけのつもりであったが、ハーディーから手渡されたドリンク一杯無料サービス券には『※ケーキとのセット注文が必要です』との決まりがあったため、ひとまず珈琲に合うだろうチョコレート系のケーキを選んだ。
 チョコレートで練り上げられた、ずっしりと重い生地を横にしたフォークで切る。口に含めば、濃厚な味わいが広がるが不思議と嫌な甘さではなかった。深みのある甘さは、店独自にブレンドされた珈琲の苦味とよく合い、名店の名に恥じない美味しさであった。
 甘味を食べたのは、あの最果ての島以来だった。アイシングとアラザンで輝くドーナツと、今にも崩れ落ちそうな男の姿がジェイドの脳裏に蘇る。途端に暗澹たる気持ちとなった。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。単に、己が信頼に値する存在ではないからにすぎないだけの話だ。茫漠とした霧が立ち込める心境のまま、ジェイドはサキに言葉を返す。
「俺に気を遣わずとも、友達と来たらよかったんじゃないのか」
 少なくとも無愛想な兄よりかは楽しめるだろうと善意で言えば、たちまちサキの頬が膨れる。気を損ねたときによくする、昔からの癖だった。
「もう、兄さんったらまたそんなこと言って……」
「何か変なことを言ったか」
「誰かの代わりとかじゃなくて、兄さんと一緒に楽しみたかったの。ここまで言えばわかる?」
「あ、ああ……」
 いまいち釈然としなかったものの気圧されて頷くジェイドに、サキは時間をかけていけばいいかとつぶやき、タルトフリュイに手をつける。林檎やベリーといった色とりどりの人工果物。つや出しのナパージュを纏った果物に光が反射し、宝石の様にタルト生地の上に鎮座していた。
 果物と果物の隙間に丸い刃先を滑らせ分断する。ひとくちで収まる、小さな島となったタルトレットには赤い表皮と黄金色の果肉がきらめいている。
「私、林檎好きなんだ」
 林檎と聞いてジェイドが真っ先に思い出すのは、かつてスクールを賑わせた闇色の果物だった。不可解な面持ちを悟ったのか、サキは軽く首を振る。
「ヤミリンゴのこともあったけど……。昔、私が熱を出して寝込んだとき、林檎をうさぎさんの形に切ってくれたでしょう。まだ、私たち家族四人が仲良く暮らしていたとき……」
 相槌を打ち、ジェイドは珈琲に口をつける。舌を覆った甘さを苦味が溶かし、酸味がさらう。
「兄さんは何も言わないし、その事情は酌みたいけど、でもいつか伝えてほしい。兄さんにばかり背負わせたくない」
「……サキに心配をかけたくない」
 目の前の、大きな黒目が濡れて揺れる。
 心配をかけたくない。
 その言葉を口にしたとき、ジェイドの頭の奥で何かが開かれる感覚がした。あ、と意味もない言葉を発するよりも前に、サキがぽつりと呟く。
「さみしいよ。私たち、お互いがたったひとりのきょうだいなのに」
 溢れ出すかと思われた涙は、しかし瞼の中に仕舞われた。タルトレットの果物に劣らぬほどきらめき潤んだ眼に宿る意思は固い。
「心配してくれる、その気持ちは嬉しい。でもね、兄さん。兄さんの気持ちと同じくらい、私も兄さんのことが大切で失いたくないと思っている」

 ******
 
 決して大きくはないが、凛として明瞭な声だった。
「勝手に私を巻き込まないで。彼の好きにさせたらいい」
 そう言いつつも、女性はハーディーとは逆側の、セティーの隣の椅子に腰をかける。
「きみはオークションハウスでアルドと行動を共にしていた……」
「あの時は胡散臭い金髪の男を探していたようだけど無事会えたのね」
「胡散臭いってひどい言い草だぜ」
「事実、そこの彼もそう言っていた」
 ソフィアと名乗る女性の手には中身の入った赤色のワイングラス。切り揃えられた前髪から覗く幼い顔立ちから推定するに、まだ成人には達していないのではないかとセティーは懸念した。
「未成年がいていい場所ではないぞ」
 すると、ソフィアはきめ細やかな肌質の額に皺を寄せた。
「言っておくけど、私は貴方たちよりもはるかに歳上。ある日を境に年を取らなくなっただけ」
 手袋を脱ぎ取った手先は瑞々しく、年波は刻まれていない。淡く塗られた薄水色の爪がコツ、と机を鳴らす。
「肉体はそのままなら、アルコールは体に差し障るんじゃないのか」
「杓子定規に酷なことを言わないで」
 変なことを言っただろうか、と隣のハーディーに目を向けると、やれやれといつもの仕草でため息を吐く。
「お前が真面目ちゃんだってのは知ってるけどよ。死ぬまでの長い長い日常の暇つぶしを取り上げちゃあ可哀想だろ?」
 そういうこと、と赤ワインを呷る。そういうものか、とセティーは納得した。後頭部に咲く青い花に、あの海で見せられた一枚の栞を思い出した。同じ青の花。
「きみが守ってくれたんだな、あいつのこと」
「……ええ」
 さきほどの剣呑な様子とは打って変わって、ソフィアの顔がほころぶ。大切な存在を思い浮かべる時の、あの慈しむような柔らかい眼。
「ならば理解出来るだろう。己の言動による影響が不確定な状況に置いて、下手に行動して相手を煩わせたくないと」
「つまり、避けられる障害は発生前から対策する」
 小さな口にワインが吸い込まれる。でも、とソフィアは微かに赤く湿った唇が開く。
「同じくらい、ジェイドも貴方のことが大切だと思う」
 クリームがかった薄水色の髪が揺れる。同時に、萼から離れ、青い花弁が散る。
「貴方が不安に思うのは仕方がない。巻き込みたくないから知らせない。心配させたくないから辛さを打ち明けない。失うのが怖いのでしょう?」
 喪失への恐怖。エアポートでの惨劇がセティーの脳裏に蘇る。とめどなく溢れ出る鮮血。血の気を失うジェイドの顔。譫言のように呟かれた、自責の言葉。息が詰まる。いつ思い出しても、あの光景は忌々しいほど明瞭に染み付いている。
「……大切なものを失いたい人間などいないだろう」 
「そうね。人によっては標本するが如く、永遠の方舟に閉じ込める場合もあるけれど……」 
 太腿の上に置かれた握り拳に、ソフィアの小さな手がそっと載せられる。その時初めて、己の手が震えていたことにセティーは気がついた。
「貴方が、ハーディーや三人の相棒たちに守られているように、ジェイドも貴方以外に守ってくれる人がいる」
「……きみとか?」
 ソフィアは穏やかに笑った。 
「だから、……安心して。彼は弱くない。どのような暗闇でも損なわれることのない、不屈の光だから」
 その言葉を聞いて、心の奥でずっと張り詰めていたものがゆっくりと解けていくのをセティーは感じた。深く息を吐き、わかったと呟く。そして、正面に向き直る。
「マスター。ギムレットを」
「おいおい、俺の前では断酒じゃなかったのか?」
「例外はある。何事にもな」
 新たに差し出されたギムレットを呷る姿に、ハーディーはやれやれとため息を吐く。 
「彼、お酒強いの?」
「んー……、せっかくだし迎えに来てもらうか。その前に記念写真な」 

 ******
 
 一方ジェイドは、サキと現地で別れ、ダストシティへ向かっていた。
 握りしめる端末の画面には一枚の画像と地図を添付したメッセージが表示されている。カーゴステーションを経由して降り立てば、眩いネオンと怪しげな雰囲気がジェイドを迎える。近くにいた通行人にバー・エクリプスの場所を尋ね、通路に置かれたコンテナが退かされた痕跡を辿り、階段をいくつか昇降するとようやく目的地に辿り着いた。
 真っ直ぐにカウンターへ向かうと、ジェイドの姿を認めたソフィアが手を振る。
「何か飲む?」
「いや、いい。……やっぱり、水を貰えるか。俺じゃなくて、そこの酔い潰れた男に」
 背後から聞こえた声に、セティーは反射的に振り返り、目を丸くする。
「な……、何でお前がここに」
「隣の男から連絡を受けたからな」
 ジェイドが端末を突き出す。その画面には、カウンターに突っ伏したセティーと無表情でカメラを睨むソフィアの写真が映し出されていた。送信主はハーディーとあった。
「まさかこれほどまで酔っ払っているとは思ってもみなかったが」
 酔いで目は蕩け、頬は上気し、力の入らない体をカウンターに預けている。実際に目の当たりにしたセティーの酩酊姿にジェイドはため息を吐き、ソフィアに尋ねる。
「一体これはどういう組み合わせなんだ。セティーと知り合いだったのか?」
「ただ居合わせただけ。仕事疲れなのかひどい顔をしていたから二人で話を聞いていたの。それで、今に至る」
「まさかこんな酔い潰れるとは思わなかったがなあ」 
 いかにも愉快げに、ハーディーはうつ伏せの姿で最悪だと呟いているセティーの背中を優しく叩く。
「もうおひらきにすべきなんだろうが、まだ飲み足りねえからこいつのこと頼んでもいいか? 俺の大事な弟をよ」
「……頼まれずとも、そうする」
 ジェイドはセティーの肩を掴み、上体を自身の背中に寄りかからせる。そこでようやくセティーは顔を上げた。
「じ、自分で歩けるから下ろしてくれ」
「嘘をつけ」
 抗議を聞き流し、ジェイドはセティーを背負ったまま荷物を回収する。そのうちセティーは大人しくなり、長い足が力無くだらりとぶら下がっていた。
「じゃあ次は四人で飲もうぜ。もう少しで合法的に飲めるだろ」
「別に俺と飲んでも楽しくないと思うが」
 するとハーディーはその白い歯を見せて快活に笑った。
「こりゃあお前さんが成人を迎えるのが待ち遠しいな」  
 揶揄われたと捉えたジェイドは押し黙り、じゃあなとセティーと共にバーを後にする。その後ろ姿を見て、ソフィアはハーディーに鋭い視線を向けた。
「なぜ貴方はいちいちそう煽るの」
「面白ぇから。何だかんだいって律儀に反応を返してくれるしな。わかるだろ?」
「私はそこまで悪趣味じゃない」
 陶器の如くなめらかな額に皺が寄せられるも、ハーディーは意に介すことなくキャロルを飲む。 
「大事な弟が旅立っていくのはさ、寂しいのよ。なあ、グレイ」
 サイボーグの忠犬は、クーンと甘えるようにハーディーに寄りかかる。
「素直にそう言えばいいのに」
「言っているつもりなんだが、なぜだか本気にしてもらえなくてね、可哀想だろ?」
「自業自得でしょう」
 リズム良く振られるグレイの尻尾を眺めながら、貴方にも尻尾があればよかったのにねとソフィアは呟いた。
 
 ******
 
 都市区画の中心部のため、深夜帯でも街灯やビルが煌々とガンマ区画を照らしている。帰路につく会社員や今から働きに出るのであろう人々とすれ違い、その度にジェイドの首元に埋まる鼻の形がより深くなる。
「お前も酔うんだな」
「今日はたまたまだ。いつもはちがう」
 どこか拗ねたような口調に、ジェイドは珍しく思った。淡々とした普段の佇まいとは異なり、今はどこか幼い。この男はどんな子どもであったのだろう。今と変わらぬ優等生だったのか、それとも親の手を焼かす悪童か。何も知らない。知らないことの方が多い。この前のように、後からその存在を知ることが増えるのだろう。しかし、ジェイドの胸には以前のような焦燥は宿っていなかった。代わりに、背中に寄りかかる重みに充足感を抱いていた。
 通り過ぎる、客入りの悪いコンビニエンスストアやぷつぷつと明暗する電光の看板、定位置に現れる電子猫、そしてドーム越しの月。全てが懐かしく、そして未だ失われていないことにジェイドは安堵した。 
「お前の家も久しく訪ねていないな」
「……また来たらいい」
「寮の部屋がまた水浸しにされた時にでも頼る」
 背負う体が揺れる。おかしくてたまらないといった様子でセティーは屈託なく笑う。
「はは、懐かしいな。そうだ、寮の門限はとっくに過ぎているだろ。帰れるのか?」
「門限もクソも無い自治寮だから平気だ。スクールの自動受付でペナルティは喰らうかもしれんが、今更だろう」
「……お前、本当に卒業出来るんだろうな」
「……」
 問題ない、と言うには山積する不確定要素にジェイドは口を噤む。せめてサキと同時に卒業することは避けたい。兄の威厳として、とジェイドは残りの単位と必要講義数を頭の中で計算し始める。
 都市の中心部を抜け、住宅街へ入れば人通りは落ち着いた。しん、と静まり返る夜道に、セティーの呟いた言葉が響く。 
「この前、ガルレアでお前が言ったこと覚えているか?」
「……ああ」
 覚えているも何も、忘れたくとも叶わぬほど後悔していた。気を遣わなくていい、とジェイドが返すよりも早く、セティーが続きの言葉を紡ぐ。 
「今度、一日空けてくれないか」
 真剣な声色に、ジェイドはしばらく黙った。足音ばかりが響く。ようやく返事をした頃には、あと数分で家に辿り着くほど歩みを進めていた。
「わかった。日は合わせる」
「いや、学業は優先させろよ。卒業できなくても知らないからな俺は」
「……わかった」
 酔っ払いに説教されるとは、と思ったが正論のためジェイドは渋々頷く。
 明日は補習のボランティアがある。KMSシティでの清掃活動だ。行かないつもりであったが、何時に起床するか今のうちに決めておこう、とジェイドは思い直した。下へずり落ちていくセティーの体を背負い直し、ゆっくりと夜道を歩く。

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