第8章 追慕
視界の大半を覆う花弁、薄赤色の群れが街を彩り、木漏れ日はまだらな漂白をもたらす。やわく吹く風によって花弁は主たる木から別れ、束の間の浮遊を楽しむ。
行く先を目で辿ればジェイドがいた。腕組みをして幹にもたれたその姿は、なかなか絵になるとセティーは思った。
しばらく見ていようとも考えたが、相棒たちを待たせてはいけないと、歩を進める。脱色された白髪には数枚ほど花弁がついていた。落ちる人影に気がついたのか、ゆっくりとした瞬きとともに視線を向けられる。誤魔化すように思いついた言葉をそのまま口にする。
「綺麗な色だな」
「既に見飽きたぐらいだ」
情緒も無い返しだが、らしいと言えばらしい。
順番が来たと伝えれば、軽く頷き付いてくる。店先に吊り下げられた暖簾をかいくぐった先はイザナでも有名な食事処であり、すでに客の姿でひしめき合っていた。
「おーい、こっちだよ〜」
先に案内された個室で待っていたレトロたちに呼びかけられ、セティーとジェイドは席につく。
エルジオンやイージアとは打って変わって、東方ならではの木材を基調とした空間に、今回は場所も時間もずいぶん遠くへ来たものだなとセティーは店内を眺める。机は使い込まれた木特有の照りや無数の傷が刻まれており、店の人気はここ最近のものではないことが窺い知れる。
注文をしてからほどなくして、セティーの前にはきつね、ジェイドにはたぬきうどんがそれぞれ置かれた。湯気とともに立ち上がる風味。色つやの良い油揚げ。いただきますと手を合わせ、まずはレンゲで掬った汁を口に含めばやわらかな味わいが舌に広がる。
ちらりと向かいに座るジェイドを見やれば、いつぞやの麺相手に四苦八苦していた姿は何処へやら、器用に箸を駆使して麺をすすっていた。視線に気がついたのか、いつもの無愛想な目つきで見過ぎだと返される。
「IDAの食堂に箸を使うメニューがあったから、慣れるまでずっとそれを食っていた」
「この日のために?」
「悪いか」
別に、とセティーも倣って麺をすする。イージアの時みたいに食べさせてもセティーとしてはよかったのだが、それを言葉にすれば不貞腐れることはわかり切っていたので己の中に仕舞うことにした。
イージアで約束した通り、二人はうどんを食べにイザナを訪ねていた。
もちろん合成鬼竜ではなく(頼めば了承されるだろうが)、自力で向かったのだがこれがなかなかの長旅であった。まずエアポートの時層から次元の狭間へ行き、そこから幻影の森、リンデで定期船に乗ってようやくイザナに辿り着いた頃には二人はおろかレトロやクロックもさすがに疲れたとみえ、機体が普段よりも下向きとなっていた。
「最近はちゃんと講義に出席しているんだろうな」
まるで子供の生活態度を心配する親のような口ぶりだなと思いつつ、セティーは近況を尋ねる。
「ああ。問題ない」
そう言って、ジェイドは目を逸らす。嘘が下手だなと呆れていると、クロックが不敵に光った。
「出席日数不足のため、補習としてボランティアに参加したとありますが」
何で知っている、と呻くジェイドだったがなんてことはない。机上の端末に表示された、スクールからの通知をクロックが読み取っただけであった。墓穴を掘ったと舌打ちするジェイドに、いっけないんだ〜とレトロがはしゃぐ。
「たしか次で卒業だったよな。単位は足りているのか?」
「……授業料も全額免除されているから留年しても大丈夫だ。ある程度は」
厳格な親であれば叱責しているところだろうが、親ではないセティーは代わりにため息を吐いた。
「イスカくんから聞いたが、インターンシップも単位認定されているんだろう? どこか行こうとは考えていないのか。お前の腕ならEGPDも歓迎すると思うが」
「行ったところで確実に単位が取得出来るわけではない。それに、己の協調性のなさは俺も自覚している」
「堂々と言うことではないぞ、それ」
「講義よりも今は金が要る。例のものを探すためには路銀集めが最優先だ」
例のもの、つまり輝ける民の正典のことである。時空を超えて各地に散らばっているであろうそれを回収することが、ジェイドと銀墨の乙女の命題であった。
「であれば尚更卒業したほうがいい。IDAの学生だからといって、学生である以上限界があるからな。それに、時間の融通が効くところへ就職すれば金銭面の問題もクリアする」
「……善処する」
頑固ではあるが、筋の通った説明を受け入れられるほどの度量はある。渋々ながらも頷く姿に、セティーはひとまず安心する。ジェイドはふと箸を止め、窓の向こうへ視線を向けた。
通路とは逆側の、案内された個室の壁には、横長の四角で縁取られた窓がある。木の格子に和紙が貼られた障子は半分開け放たれ、外の景色がよく見える。
陽光に照らされあたたかな白へと染まる桜。風が誘うかのように花弁を撫で、共に踊りそして散り、ひとたびの舞を魅せる。花見をしながらうどんを啜るとさらに美味しいという店の売り文句がよくわかる。それは向かいの青年も同じようで、その赤い目は花びらに囚われていた。
手のかかる年下の仲間。もしくは親友。それと? セティーは己の中のジェイドの立ち位置を決めあぐねていた。
最果ての島での邂逅以来、折を見て顔を合わせるようになっていた。当初の張り詰めた緊張は解け、不信に基づくわだかまりも消え、あるのは安穏。どちらも口数が少なく、会話よりも沈黙が多い時もあるが、しかし不思議と気詰まりではなかった。当たり前のように食事を共にし、他愛のない会話をし、そして顔を見ることが何よりも安らぎだった。なぜ? 針のむしろから無事抜け出し、凄惨な過去を過去として向き合い始めたこの青年を、平穏の象徴だと捉えているから? 幸せが確定された物語のように、自分へ安心をもたらすから?
とめどなく溢れる思考の切れ端をつなぎ合わせ分析を試みるも、しかし上手くいくことはなかった。厄介だ、と思う。あのひとなら、とセティーは考える。いち従者であるセティーの思考を正確に言い表すことができるのだろう。だが、自分自身で探し出すことが大事なのだ。その答えが見つかるのかは別として。
急ぐ必要はない。時間をかけて、今度こそ間違いのないように。
それに、とセティーは思う。今日のジェイドはどこか変だと。何かを言いたげな眼で、しかし言葉にするのでもなく。何かあったことは確実だが、踏み込むのは躊躇われた。いたずらに、他人の内部を覗くものではない。いくら親しみを覚えている相手であっても。普段過ごす日常から離れた環境においては、イレギュラーな言動が発生する可能性が高くなる。ジェイドとしても本意ではないだろう。であれば今回は純粋に旅行を楽しむべきだ、とセティーは無意識に左腿をさする。
犯人を捕捉する際に運悪く太腿を刺され、大事を取って先日まで入院中の身だった。
幸い、傷は深くなく痛みも感じることはない。下手に心配はかけたくないとジェイドには伝えていなかったが、どこから聞きつけたのかハーディーがケーキと共に見舞いに来たことがあった。箱から、彫刻のように滑らかで均等にクリームを塗られたフレジエが二つ、取り出される。
「ちゃんと順番に並んで買ってきたんだぜ」
「当然だ」
薄黄色のスポンジに挟まれたクリームの土台には半面に切られた苺が行儀良く列を成している。付属のフォークで三角形を平行に切り、口に入れる。軽やかな口当たり。苺の甘酸っぱさとクリームの柔らかい甘みがまとまり、甘味好きの間ではレベルの高い店として評判だろうとセティーは思う。事実、甘党であるハーディーは足繁く通っているようで、ポイントカードが今回で五枚目になったと言う。
「んでよ、ポイントが全部貯まるとサービス券がもらえるんだよな。いるか?」
差し出されたサービス券には『ドリンク一杯無料サービス券』と記載されている。しかし受け取ることはなく、代わりに首を振った。
「行く機会がない。必要な人間に渡せばいい」
「デートとかうってつけだぜ? テラス席は落ち着いているし」
「生憎、甘いものが得意ではないからな」
誰が、と言うこともなく言葉を濁すもハーディーはなるほどねと心得たようにサービス券を懐に仕舞った。その際ハーディーの眼に閃いた色が宿っていたのを、セティーは見逃していた。
「イトイスは雪山の向こうにあるんだな」
ジェイドの言葉に、セティーは我に返る。イトイス。ガルレア大陸の北部に位置する妖魔の隠れ里。
行きたい場所があるのか? と訊ねようとしたセティーの隣に、人影がひとつ、いやふたつ、現れた。
「もし行くのであればさほど困難でもないでしょう」
凛とした声の主はツバメだった。
普段の忍び装束とは異なり、店の制服である和装の給仕服に身を包んでいる。にゃんと合いの手を入れたのは猫のスズメ。いつの間にジェイドの膝の上に乗って腹を見せている。
二人が現れたのもなんら不思議ではない。セティーたちがうどんを啜っているこの店は、以前にツバメから勧められた食事処であったからだ。堂々とした顔をしているが、口元に付着した食べかすからつい先ほどまでまかないを食していたであろうことがわかる。ジェイドに指摘されるも動じることなく、布巾で口元を拭う。
「たしかに、イージア気象管理部に過去資料として保管されている気象記録においても、クンロン山脈の降雪状況も比較的穏やかであったようですね」
クロックの説明に、以前アルドを始めとした仲間たちとともに雪道を歩いた日をセティーは思い出す。
ミグレイナ大陸は他大陸と比べ、気候の変動は穏やかだ。加えて、気候が調整されたエルジオンの空気に慣れていると、自然が猛威を震うガルレア大陸はそれだけで驚異そのものである。
特に雪には手を煩わされた。豪雪に視界は霞み、熱が奪われ思うように動かない体。これほど壮絶なものだとは思いもしなかった面々は、降りしきる豪雪に辟易したものだったが、あの日が特別気候の悪いときであったのだろう。説明を引き継いだクロックに、ツバメは頷く。
「妖魔三人衆が討伐されて以降、一帯も落ち着き始めたので凶暴な魔物に鉢合うこともまずないでしょう」
ですが、とツバメは求められるままスズメの顎を撫でるジェイドに向き直る。
「現在、イトイスでは星魂祭の期間中です。部外者は立入不可のため遠くから眺めるかたちになりますが」
「いや、別に行きたいという訳では……」
戸惑うジェイドを手で制す。
「いいじゃないか。折角の旅行だ。今日を逃したらいつ来れるかわからないぞ」
「……体に、差し障るんじゃないのか」
「そんなやわな鍛え方をしていないさ」 仲間はおろか妹のサキにさえ自分のことは何も言わないジェイドが、興味を口にすることはめずらしいことだった。であるからこそ汲みたい気持ちがセティーにはあった。やがて観念したようにジェイドは頷く。
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瞼を開こうにも睫毛は凍り、降りしきる雪に霞んだ視界は薄白い。昼なのか夜なのか、判別不能な鈍色の空と真新しくなり続ける地面の雪の白さ。深く刻んだはずも、数歩して振り向けばすでにその痕跡が消えている。
以前通行した際に取得したデータを基にしたクロックの案内により、一行はイトイス へ向かっていた。ツバメの言葉通り、イトイスへの道中であるクンロン山脈はその荒々しさは鳴りを潜めていたものの、やはり慣れない雪路は体力を奪う。
洞窟を抜け、どうやら断崖に出たようだった。明るく澄んだ最果ての島のエメラルドグリーンとは異なり、右手に広がる海は落ちてしまえば永遠に浮上することは叶わないのではと思うほどの深い紺色。
浮かぶ流氷がゆっくりと動く。時折、まわりの氷と接触しながらも海流に沿って進んでいく。いつの間にか立ち止まっていたらしい。先に進んでいたはずのジェイドが、セティーの元へ戻っていた。
「少し休もう」
ジェイドは近くの岩場を指差す。旅人たちが同じように休息していたのだろうその岩は、座るのに適した傾斜となっていた。二人は横に揃って腰を落ち着けた。
「無理をさせてすまない。急なことを言って」
そう言って、ジェイドは鞄から取り出した水筒をセティーに渡す。竹で作られた水筒の中身は先の店で購入した茶であり、蓋を開けばたちまち湯気が溢れ出る。そのまま雲散して形を無くす様子を見届けてからセティーは筒に口をつける。
「気にするな。それに、行きたかったんだろう?」
レトロたちは海に向かって何か喋っている。時折光るので、おそらく記念に写真でも撮っているのだろう。その様子を眺めながら、ジェイドは言葉を紡ぐ。
「昔、知り合い……いや、親友から、昔の東方では死者の霊をもてなす祭りがあったと聞いたことがあった」
土産話として一度目にしておきたかった、とぽつりと呟かれたその言葉は独り言に近いものであった。
「星魂祭のことか」
隠れ里イトイスには、天に還った魂が大切なひとへ会いにひとたび戻ってくるという祭がある。
「大陸も時代も異なるから無いとは思うが……。もうここにはいないひとたちの存在を少しでも感じたかったのもあるかもしれない」
黒色のダウンジャケットの襟首に顔を埋め、ジェイドはそっと目元を緩ませた。その仕草に、思わず触れたい気持ちに駆られたが、その手はポケットの中に納まったままだった。
手。右手に節くれだった大きな手、左手にやわらかな香りのあたたかな手。いつの頃だったか。あれから何年経ってしまったのか。ふと、両親の姿が脳裏に蘇る。
まだ開園されていたトト・ドリームランドへ家族で訪れたあの時。
観覧車やメリーゴーランドなど、遊園地を彩るアトラクションを一通り楽しんだ三人は、園内のベンチで夜空に打ち上がる花火を待っていた。
日は落ち、親しみからよそゆきへと装いを変えた遊具がきらきらとまばゆいて遊園地に灯る。綺麗で、しかしどこかもの悲しく、終園の合図である花火を待ち望む一方で、今はどうかまだ、と下ろしたばかりの靴を見つめていた。祈るように強く握りしめられた小さな拳を、そっと上から大きな手が包み込む。
見上げれば、やさしい眼差し。そして、一筋の光が夜空へとまっすぐ打ち上がる。
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「やはり体調が悪いんじゃないのか」
ジェイドの声でセティーは我に返った。
とっさに額に手を当てると零下だというのに汗ばんでいる。心配されるのは本意ではなかった。平然を装って中身が冷めた水筒を返す。
「問題ないよ。……休憩は終わりだ。さ、行こうか」
「平気ではないことぐらい、俺でもわかる。お前は自分のことを何ひとつ言わない。何も、だ」
レトロとクロックに呼びかけ、立ち上がって先に氷穴へと進み始めたその背中に、寒さのせいではない震える言葉がぶつけられる。
雪の上を足で踏み鳴らしながら近づくジェイドにセティーは瞬きを返した。
「職業柄、聞く側専門なもんでな」
「信用がないのならそう言えばいい」
ちがう、と口を開く前に微かに揺れる眼と視線がぶつかる。すさぶ雪の間隙から垣間見える雄弁の赤に、思わず息が詰まる。
「お前の兄を名乗る男から聞いた。ついこの間、捜査対象者に襲撃されて入院していたとな」
兄。その言葉に胡散臭い笑みを浮かべる男の顔が脳裏に浮かんだ。見舞いの際、含んだ物言いが気にはなっていたがまさか接触までしているとは予想だにしなかった。
「あの人のことは気にするな」
「俺は、何も知らなかった。お前の兄も、孤児院を運営していることも、刺されて入院していたことも。何一つ。乗せられたバイクの後ろでただ呑気にはしゃいで。何も気づかなかった」
とめどなく溢れ出る言葉が言葉として知覚された時、一番に動揺を見せたのはセティーではなくジェイドだった。間違えた、こんなはずではなかった、と顔にありありと後悔が浮かぶ。
「ちがう、お前を責めたいんじゃない。悪いのは、……俺だ。だからこのことは忘れてくれ」
今度はジェイドが離れる。氷穴へ消えたジェイドを追い、セティーは追いかける。
「ジェイド」
声が洞窟の中で反響する。呼びかけに、黒いダウンジャケットの後ろ姿が止まった。何か言わなければ、と言葉を探す。
「その、入院について黙っていたのは悪かった。そこまで大した怪我ではないし、今はもう痛みさえ感じない」
返答はない。振り返ることもなく、ジェイドは頷いた。おびやかさないようにゆっくりと氷床を踏み締め、距離を詰める。ようやくジェイドの隣に並び立ち、セティーは息を吐いた。
「……さっきは、昔のことを思い出していたんだ。大切なひとのことを。今はもういない、会うことのできない父と母のことを」
ジェイドがセティーの方へ顔を向ける。驚いたように見開かれた眼に、そんな顔するなよ、と笑うも上手く笑えたのか判然としない。
「セティー……」
「さ、もうちょっと頑張ろうか」
氷穴の出口へ足を進める。後ろから、慌ててついていく足音が聞こえる。海が遠ざかる。
つららの成る氷穴も通り抜け、すっかり馴染みとなった雪景色とふたたび相まみえる。
先に進んでいたレトロが一際高い声を上げる。
「もしかしてあれがイトイスじゃない?」
アームが指し示した先に、里はあった。
降雪に霞み、灯籠のやわらかな灯りが点として滲んでいく。点状の祈りが合わさり、来たるべきひとたちを地上で待っている。見つめ合う。赤が、もしくは自分かも知れなかった。揺れているのは。