第7章 溢出
なぜこんなことに。どこを見渡しても年端もいかぬ幼い子どもたちに囲まれている。目をらんらんと輝かせてこちらを見つめるものだから、何とも居心地が悪い。邪険にするわけにもいかず、かと言って何を話せばいいのかわからないので無言で座っていると、遠くから「シャッターチャンスじゃん。写真を撮れないのが惜しすぎる」と声が聞こえる。撮られていたら最後、端末ごと破壊していたに違いないため撮影許可が下りなくてよかったとジェイドは心の底から思った。
******
住居区画であるシータ区画の外れに円形状の施設が佇んでいる。外壁はクリーム色を纏い、円筒を囲む庭園にはブランコや滑り台といった遊具が置かれている。一行は列となり、シェリーヌを先頭にして施設の中へ入る。
「貴方たちにはボランティアに行ってもらうわよ」
普段であれば無視しているスクールからの呼び出しだったが、今日は何だか胸騒ぎがしたため大人しく集合先の教室へ向かえば、そこにはフォランにセヴェン、マイティといった見知った顔がちらほらいた。彼らの前には教師であるシェリーヌが立っており、ジェイドの姿を認めると軽く頷いた。
「貴方も今日はちゃんと来たわね。また無断欠席でもされたらそろそろお仕置きの頃合いかと思っていたけれど……」
その長い指先を鞭に這わせる。瞬間、いつぞやシータ区画にいた不審な輩がこの教師に鞭を打たれていた光景を思い出す。脳裏に蘇る、地を揺らすほどの鈍い音に寒気が背中を走り、姿勢が自ずと正された。他の面々も同様に畏まったその様子にシェリーヌは満足したのか、鞭を輪の形に巻き直してベルトへ仕舞った。
「うふふ。ようやく事の重大性について認識してもらえたようで嬉しいわ。そんな貴方たちにチャンスよ」
教卓に置かれた液晶パネルに施設の写真が映し出される。最近設立された孤児院と説明が記載されている通り、それほど規模は大きくないものの真新しい外観をしていた。
「あらためて、この前にあったスクール内の襲撃では皆お疲れさまでした。犠牲者が一人も出ることが無かったのは貴方達のおかげ」
「別にあんたにお礼を言われるためにやった訳じゃないけど」
とは言いつつも、嬉しさと照れが滲んだセヴェンの声色に、素直じゃないなとジェイドは思う。他の面々も心なしかそわそわしている。シェリーヌは一人一人の顔を見つめ、頷く。
「同じく襲撃を受けたKMSシティの清掃ボランティアもちゃんと補習扱いになっているのだけれど、貴方たち欠席が多すぎてまだ足りないの。というわけで今回はこの孤児院で補習を兼ねたボランティアに行ってもらいます。具体期には幼児年齢の子たちとの交流になるわね」
「へえ〜。一緒にお昼寝してもいいかなあ?」
「……昼寝の時間でもボランティアの貴方は寝ては駄目」
残念だねとあくびをするマイティにため息を吐いたシェリーヌは両手を叩いて鳴らす。「説明は以上。十分後にH棟前で集合だから用意して」
「もう行くの? 随分と急なんだね」
呆気に取られるフォランに、シェリーヌは眼鏡を光らせる。
「後日となるとまたサボりかねないでしょう? 様々な事情があるのはわかっているけれど、まだ貴方たちは学生なのだから本分を弁えなさい」
本分。いつの間にか子どもたちに囲まれていたこの状況もその一環と言えるのだろうか。
苦言を呈したくなるも、そもそも学業を疎かにしたのが悪いと返されればそれまでなので、ジェイドは黙ることにした。
孤児院に到着した一行は、多目的室へ案内された。ひらけた空間に陽光が差し込み、明るく柔らかな雰囲気が一帯を包み込んでいた。
ひとまず何をするかを考えようと、カーブ上の出窓へ座ると、周りに子どもたちが集まり、ジェイドは出られない状態に陥った。他の生徒は、と目を動かすと遠巻きにこちらを眺めている。どこか愉快げなのが癪に障るが、子どもたちの手前、不機嫌な態度を出さないように苦心した。しかしどうしたものか、と焦っていると一人の子どもが近づいて来た。
「お兄ちゃん、これ読んで」
差し出されたのは紙の絵本であった。家庭で不要になった絵本を寄贈されるため、こうした絵本の類は他の書籍と比べると紙で保管されていることが多いと聞くが、この孤児院でも例外ではないようだ。ジェイドは受け取った絵本を子どもたちが見えるように開く。
読み聞かせは初めてではなかった。昔はサキによくせがまれて同じ絵本を何度も読まされたものだから、カバーは擦り切れてぼろぼろになり、いつの間にか無くなっていた。今となっては絵本自体も遠い昔に失われた。
感傷を振り払うように、ジェイドは絵本の題名を読み上げる。
人魚姫。以前に、ミグランス劇場で観劇したことがある。船乗りの青年カジム役をアルド、その妹フィーネが人魚を演じ、ナレーションはサキが担当していた。
本扉には浜辺に佇む青年と海面に漂う人魚が語り合っている。捲り、物語へ。
「むかしむかし、あるところに一人の船乗りの青年がいました。カジムという名前の青年は、太陽が眠り月が目覚める度に浜辺へ訪れていました」
カジムは海に詩を捧げる。いつかの夜に出会った人魚ともう一度邂逅するために。
「しかし、人魚の姿は一向に見えません。あきらめきれないカジムは、まっくらな海の底まで目を凝らしました。するとひとつの影がうごめいているのを見つけました。迷うことなく、カジムは海の中へ飛びこみます。あの人魚にちがいない、と高鳴る気持ちとともに」
しかしその影は人魚ではなかった。海底に巣喰う魔物はカジムに呪いをかける。かろうじて砂浜まで逃げたものの、呪いは着々とカジムを蝕んでいた。
「足はうごかず、手も力がはいらず、重くなりつつあるまぶたはその目を永遠に閉ざそうとしていました。カジムはいのりました。一目でいい。一目でいいから、あの人魚に会えたなら」
痛切な祈りが届いたのか、命が燃え尽きかける一歩手前、霞むカジムの視界に一人の女性が現れた。それはあの月夜の人魚であった。人魚はカジムの呪いを解呪する。晴れた視界でカジムは気がつく。人魚の下肢が月光に鱗が照らされ美しく輝いていた鰭ではなく、己と同じ二つの脚となっていたことに。
陸に上がった人魚は二度とその海へ還ることは許されない。人魚から海の理を聞いたカジムは、自分の元へ来ないかと誘う。
そして二人は手を取り、浜辺を後にする。満天の星が彼らを見守る。
「海の見える丘に小さな家をたて、二人はいつまでもしあわせに暮らしましたとさ」
おしまい。物語の終わりを告げると、子どもたちは小さな手で拍手をした。不揃いだが力強い音の間を縫い、高らかな声が室内に響く。
「お兄さんに読み聞かせをしてもらってよかったね。じゃあお外遊びの時間だからお靴を履きましょうね」
施設員の女性が子どもたちを引き連れて外へ出る。その間、ジェイドたち生徒は休憩時間を与えられた。束の間の解放に一息をつき、ぱらぱらと何気なしにさきほどの絵本を捲ると、とある箇所でジェイドの目が留まる。
絵本の見返しには施設院名と院長名の蔵書印。院長名はセティーとあった。
******
カーゴ・ステーションへ着き、他の生徒がスクールへ帰るなか、ジェイドはガンマ区画へ移動した。
用事など無かったが、胸のわだかまりをそのままにして帰路に着く気持ちにはなれなかった。適当に散歩でもしていれば少しは気も晴れるだろう、とジェイドが街道を歩いていると建物にもたれかかる男から視線を感じる。黒革のジャケットをそつなく着こなす男はどう見ても堅気とは言い難い。そのまま通り過ぎると、背後から男に声をかけられる。
「この前にあった、元女社長を狙ったドローンを撃破したのお前さんだろ。見事なもんだったぜ」
誘いに慣れた口上だ。無視してジェイドは歩き進める。すると、呼びかけた男は前へ回り込んで行く道を塞いだ。
「不審な人間は無視。その判断は正しいぜ。……そういや、妹さんが食べたがっていたラヴィアンローズの新作タルトレット、ありゃなかなか美味しかったぜ」
言外に取引を匂わせる口ぶりにジェイドはようやく顔を合わせると、男は青く澄んだ目をウインクさせた。
短い金髪は立ち上がり、あらわになった額と形の良い眉毛が大仰に動く。顎周りは髭が生え、言動や振る舞いから予測するにある程度は年上だろう。男の存在は記憶に無く、しかし男はこちらのことをよく知っている。まさか輝ける民の旅団関係かとジェイドは身構える。
「……お前は何者だ」
「ん〜、何と言えばいいのかね。エルジオンを騒がすナイスガイ、闇夜を駆ける騎士? いいや、お前さんにはこう言ったほうが効き目あるか。俺の可愛い弟がお世話になっているようで」
「何を言っている?」
弟? 心当たりのないジェイドがさらに不信感を高める姿に動じることなく男は続ける。
「この前、時の忘れ物亭で一緒に帰った姿をちゃんとこの目で見たぜ。日頃エルジオンの平和のために奔走している立派な捜査官サマと」
「な、まさか……」
胸が跳ねる。秋に実る穂麦色の髪、透き通った海を切り取った目。言動こそかけ離れているものの、外見の類似性は高い。
「その様子だと、どうやら俺のことをお前さんに話していないのか。相変わらずだなアイツは」
動揺するジェイドをそっちのけに、ハーディーと名乗る男はよろしくなと手を差し出す。厚みのあるその掌を眺めながら、ジェイドは別のことを考えていた。
「本当に兄弟なのか?」
「ま、いろんな形があるからよ、兄弟ってもんは。そんなに気になるんなら本人に聞けばいいさ。アイツは必要のない嘘はつかない」
「……ッ」
嘘も何も、と言いかけるもジェイドは口を噤む。
「自信が無いのか?」
「関係ない、お前には。さっきから何なんだ。裏があるのならはっきりそう言え」
見透かしたような眼に思わずジェイドはむきになる。しかし何を吐いても、足掻きでしかないことは自覚せざるを得なかった。そんなジェイドを嘲笑うことなく、笑みの失せた顔でハーディーは呟く。
「……俺たちはさ、皆薄氷の上に立っていると思わねえか」
靴底が音を鳴らす。プレートは透け、目を凝らせば、はるか昔に人類が打ち捨てた地上がそこにある。
「体重の掛け方や氷層の厚さで、いとも容易く氷は割れる。踏み外すのは一瞬さ。命あれば僥倖だ。だけどいつもいつも女神様が微笑んでくれるわけじゃあない」
脳裏に蘇る。最期に触れた母の手のぬくもり、死ぬ間際に見せた親友の笑顔、氷の中に閉じ籠ったサキの恐ろしいほど白く血の気の失せた肌。
「……何が言いたい」
「生きている間に伝えるべきことは伝えておけって話だよ。恥とか躊躇いとか、遠慮とかそんなんは要らねえ。何が目的かと聞いたよな。答えは単純だ。俺は大切な弟に後悔してほしくないだけ」
「立派な兄貴だな」
精一杯の嫌味に、ハーディーは意に介することなく軽やかに笑う。幾層にも被ったこの男の仮面を、最後まで剥くことのできる人間などいるのだろうか。ジェイドは内心舌打ちをした。
「いやいや、お前さんには負けるかな。知らないうちに刺されやているし、見舞いに行ったら病人のくせに仕事してやがるし、俺が何を言っても全然聞きやしないの」
次々と繰り出される発言にジェイドはふたたび固まる。その姿にハーディーは一瞬目を丸くし、今度は決まりの悪そうな顔をした。
「もしかしてそれも言ってねえのかよアイツは……。悪い。忘れてくれ」
「見舞いって入院しているのか」
「入院といってもかなり前の話だぜ。お前さんたちの成人祝いの二日前くらいが退院日だったからよ。……よし、グレイ。行け!」
「バウ!」
「なっ、おい!」
グレイがジェイドに飛び掛かる。動揺で緩んだ手から端末を口で咥えると、飼い主であるハーディーに受け渡した。そうして両手で持った端末同士を突き合わせ、やがて軽快な音が鳴る。
「グッド・ボーイ、グレイ。これで連絡先交換は完了っと」
ほらよ、と放り返してきた端末をジェイドは握りしめる。
「揃いも揃ってお前らは強引だな……!」
「ははは、似ているとは嬉しいこと言ってくれるねえ。友好の証にそれやるよ。あいつの見舞い用にケーキ買ったらサービス券貰ったけど、しばらく行けねえし」
見れば、返された端末の上に二枚の紙切れがあった。
「それじゃあ俺はここで。いつでも連絡待っているぜ」
悩み相談でもなんでも、とハーディーは言い置き、グレイと共に颯爽と去っていた。その後ろ姿をジェイドは呆然と見つめる。
******
何も知らない、と言葉は無意識に溢れ出る。油膜には歪な虹色のみ浮き出ている。
あれから、ジェイドの足は自然と廃道へ向かっていた。
話そうと思えば、いくらでも機会はあったはずだ。ガンマ区画での定期的な食事や、ついこの間のツーリングでは素振りさえも見せなかった。気づきやしなかったのだ。
息を吸い込む。埃の混じった、湿度のある大気は存外に重く、肺に深く沈殿する。その重さに思わず俯き、薄汚れて錆びれた地面が目に入る。亀裂の入った足場は、血液が機械油かどちらとも判別できない染みが至る所に散らばっている。
あの時の血は、エアポートで流した血はもう既に綺麗に拭い去られているのだろう。胸を突き破られ、熱い血は溝へ流れ、やがて地上に零れ落ちたことは、二人しか知らない。純白の制服が赤く染まることもいとわず、力が抜けた体を抱き留め、その目は動揺で染まっていた。嘘ではないのだ。あの男を構成する誠実や真摯さは。だとすれば。ジェイドは唾を硬く飲み込む。だとすれば、言うに足る信用が己に無いからではないのか。
すべてを知りたい訳ではない。ただ、単なる顔見知りよりも心が開かれていると信じたかった。気の置けない仲として、これ以上求めるのは間違いなのだろうか。胸がやすりにかけられたようにひりつき、熱を伴った痛みに覆われる。
スモッグが毛先に纏わりつき、白髪を煤色へ変えるのもそう時間はかからない。薄汚れた空は星も映さない。滲む目を乱暴に拭い、ジェイドは廃道を後にした。