第6章 浮足
体が風を裂く。夜を光が走り抜けた。二人はその一瞬だけ、一つの塊となる。
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一ヶ月後。
アルドに誕生日を聞かれたジェイドがそう答えれば、祝う必要があるとその場に居合わせた祭り好きが湧き上がり、このたび成人を迎える仲間たちの祝いを時の忘れ物亭を貸し切って盛大に催されることになった。もっとも、酒や料理が目的の人間も少なくなく、ジェイドが初めて見る顔も一人や二人ではない。
ジェイドも祝いの対象だが、まだ成人を迎えたわけではないため酒でやり過ごすこともできない。同じく成人祝いを受けているクロードは場の中心で何やらいつもの演説しており、到底輪の中に入り込む気も起きない。
ふと辺りを見渡す。群集の中にいた金色の髪に鼓動が跳ねる。しかし違う。
無意識に姿を探す自分に気がつき、ジェイドは深く息を吐く。いない。どうせ仕事だろう。いつも多忙だ。不在に対する感想は、それだけだ。だけのはずだ。俺たちの関係は、気の合う仲間で、それ以上のものではない。言い聞かせるように、ジェイドは重い足取りで窓際へと向かう。すると、かたちの良い黒髪の後頭部を目に捉える。
「お前も来ていたのか、サキ」
呼びかけに振り向いたサキは、ジェイドの姿を認めると小さく笑みを浮かべた。
「兄さん、まだ早いけれど成人おめでとう。……ちょっと元気がなさそうだね」
「お前が心配するほどではない」
近くのテーブルに置かれたフライドチキンを手に取り、黙々と齧りつく。その様子に、サキの話し相手であったイスカが笑う。
「今日の主役なのだから、もっとパーティーを楽しんだらどうだい?」
「楽しめるような性格をしていればな」
「もう、兄さんったら」
たしなめるサキに、もう一つフライドチキンを渡すと膨れっ面のまま受け取った。もっと食べさせてやりたくなって、他の料理を目で物色しているとイスカが楽しそうに見つめていることに気がつき、居心地が悪くなったジェイドははぐらかすように言葉を紡ぐ。
「見舞いの時はその、礼を言う」
「既に言ってもらったけれどね」
「あらためて、伝えたくなった。悪いか」 凄むような口調に、イスカは笑う。
「ジェイド、君はもっと素直になったほうが素敵だ。今みたいに」
「嫌味か」
「きみも彼も、己の心情を打ち明けないだろう? 先はどうなろうと歩み寄らないと。なに、始めは不恰好でいいんだ。じきに歩き方がわかるようになる」
「別に現状を打開したいわけじゃない」
「何の話ですか?」
状況が飲み込めないサキに説明しようとするイスカを制し、代わりにピザを載せた皿を差し出す。意図を汲んだイスカは素直に受け取り、器用に筒状に包んで口へ運ぶ。
とりあえず口を封じたことを確認したジェイドは席に座ってくると言い置き、二人の元から離れた。
年季の入った革張りのカウンター席に腰を落とせば同時に隣に誰かが座る。視線を向ければ、神官服に身を包んだ亜麻色の髪の女性がジェイドを見つめていた。
「えっと、はじめまして? だよね」
成人おめでとうと小麦色のエールが入ったグラスを渡そうとするのを、ジェイドは制す。
「申し訳ないが俺はまだ飲めないんだ。代わりに飲んでくれ」
「そうなんだね! じゃあ心置きなく」
いただきます、と勢いよくエールを呷り、喉を鳴らしながら一気に飲み干す様は神職の人間とは思えないほど威勢の良いものだった。呆気に取られていると、背後から別の気配を感じる。振り向けば、艶のある黒髪の女性と目が合った。
「イーファちゃんたら驚かしたらあかんよ。酒飲みなん仲間の人たちに大体バレてるからってちょっと大胆がすぎるんとちゃうの。ほら、ジェイドはんが驚いてはる」
「えっと、ホオズキか」
覚えてくれて嬉しいわあとホオズキはその目を細める。以前に討伐で戦闘を共にしたジェイドは、独特ながらも堂々とした振る舞いのホオズキのことをよく覚えていた。
「二人は顔見知りなんだねぇ。ツッキーってば隅に置けませんな〜」
酒飲みの女性、もといイーファはアルコールの回りが早いのか、すでにその顔を赤くしていた。面倒な酔っ払いを見事に体現している。
「いややわあ。うちはアルドはん一筋やで。それにな……おっと」
白檀の甘い香りが鼻腔をくすぐる。すっと半月状に形どられた眼は狩人の色を宿していた。すべてを丸裸にする、獣特有の鋭さ。身構え、反射的に立ち上がろうとするもふらつきジェイドの上体が揺れる。幸いなことに誰にもぶつからなかったのは、ホオズキに支えられたからだ。華奢であるはずなのに、思いの外力強い。振り解こうと思えば出来るが、狐のような女が発する得体の知れなさにジェイドは動けない。
「自分、さっきから顔色悪いで」
ますたあ、お冷頼むわと気を利かせたのか水の入ったグラスを再度座らせたジェイドの前に差し出す。ゆらゆらと揺れる水面に、輪郭だけが映し出される。
「蒼褪めたかと思えば、赤くなって。おまけに普段と比べてちょっと挙動不審や。休んどき」
ぽんぽんと肩を叩かれる。労い以外の意味はなく、張り詰めた緊張が少し解れるのをジェイドは感じた。知ってか知らずか、イーファは次の酒に口をつけ始めている。
「じぇんじぇん空腹なんじゃない? 若いんだしもっと食べないと」
突如付けられた珍妙なあだ名にたじろぐジェイドをいいことに、イーファと挟むようにしてジェイドの隣に座ったホオズキは続ける。
「こうして話しかけたんも気まぐれやないねん。なんか悩んでそうやな思うてな。せっかくやし、年上らしく相談に乗ろうかなと。ほら、めでたい成人祝いとして」
言うだけタダやでとさらに弧を描く目に、猜疑心とは別にすべてを明け渡したい気持ちが想起される。相談、と回らない舌で呟くとホオズキは手入れの行き届いた御髪を揺らす。
「いうて、うちら生きる時代ちゃうから後腐れないやろ。恥ずかしなったら金輪際会わんようにすんのも可能やし」
「会えなくなっちゃうの寂しいよおぉ。せっかくお話しできたのにこんなことってぇ」
「感極まるのはええけど、ややこしなるからイーファちゃんはちょっとお利口さんしといてくれる」
今度はマスターが率先してイーファに水を差し出す。酒を飲む要領ですぐさま飲み干したイーファはカウンターに上半身を預け、ジェイドを見上げるように顔だけ向ける。
「ま、ツッキーの言うとおりかもね。じぇんじぇんって人に相談しないタイプでしょ。目の下に隈できてるし。さては悩みすぎて寝つきが悪いとみた」
同じ赤い眼がジェイドを捉える。
「吐き出すだけでも違うよ。自分の中で堂々巡りするよりは有意義でしょ」
酔いで頬に赤みは差し、机に突っ伏しているが、凛とした眼差しは神職に順ずる人間特有のものだった。
目の前のグラスに結露が溢れ、カウンターを濡らしている。拭いもせず、そのまま掴んで喉へ流し込む。熱気で生温くなったそれは、しばしの安寧とそして決断をもたらした。
「……どういった風に話せばいいのか見当もつかん」
萎むような声色に、ホオズキとイーファは顔を見合わせ、頷く。
「金髪の殿方やんね。すずしいお顔をしてはる」
たしか髪型はこうやったやんなあと、ホオズキは自分の前髪を中央で分け、額を見せる。
「えっと、セティーだっけ」
「大あたり。悩みの種って彼やろ」
ぐ、と言葉通りに呻く。まだ状況が飲み込めないイーファは疑問符を頭の上に掲げる。
「苦手なの?」
「苦手ではない。いや、苦手な時もあるが……」
半分残った水を、今度は飲み干す。結露で濡れたままの手で額を覆う髪をかき上げる。「感情を管理できない。平常でありたいのにあいつを見ると鼓動は早まるし、一刻も立ち去りたくなる。俺が俺で無くなるような、おぼつかない感じだ。このままでいいはずなのに、さらに求めてしまう。これ以上望むのは罰が当たる」
罰ねえ、とホオズキは頬杖をつく。きめ細やかな肌が押し上げられ、目は一層細くなる。
「あんまりせっつんと接点無いからなあ、具体的なアドバイスが言えないや」
「待て、その……せっつんってあいつのことか?」
「いいネーミングでしょ。使っていいよ」
「断る」
「即断!」
こほん、と咳払いをしてイーファは姿勢を正す。
「結局さ、形にしないとわかんないから、じぇんじぇんの中で渦巻いている気持ち一つ一つに向き合おう。その中にはもしかしたら汚いと感じるようなものもあるかもしれないけど、でも自分の気持ちと向き合うことは大事なことだよ。どのような形であれ、大切な人とこれからも一緒にいたいと思うのなら」
真紅の目は誠実で彩られていた。その真摯さにジェイドは虚をつかれる。
出来るだろうか、と漏らした声は思いの外頼りないものだった。一滴も酒は口にしていないはずなのに、現実感が無い。店内の喧騒が遠くに聞こえる。張り詰めながらも持ち堪えていたはずのものが、静謐な告解室で溢れていくのをただ眺めている。
しかしそれも数秒のことで、不機嫌そうなホオズキの声でジェイドは我に返った。
「そもそもな、罰が当たるってなんなん。ジェイドはんが信じる神様ってケチなん」
「いや、俺は無神論者だ」
「罰が当たるだの、自分には勿体無いだの、そういうしみったれた考え、うち好かんわ。謙虚なんと自分のことを低く見積もるんは同じやないで」
清酒を呷るホオズキに、イーファはまあまあと諌める。
「うちはイーファちゃんみたいに純粋やあらへんからいいこと言えへんけど……、一度火ぃ点いたら消えるまでどうにもならへんよ。せやから、無理に抑え込まんと素直になるんがええんとちゃう? お相手さんもそれを望んではると思うわ。ほら、お話ししていたら本人がやって来たわ」
長細い指が差したその先には、待ち焦がれたあの姿があった。反射的に、ジェイドは立ち上がり外へ向かう。扉を開ける寸前、ホオズキとイーファの元へ振り返り、ありがとうと言い慣れない礼を伝えて去っていく背中を眺め、イーファが呟く。
「自分より年下の子がいじましいとなんだか泣きたくなるねぇ……。歳なのかなあ」
「うちは多少苛ついたけどな」
「ツ、ツッキー……ッ?!」
イーファの発した声量は喧騒の中でもよほど響いたようで、周りにいた人間が何事かと振り返る。なあんもあらへんよ、とホオズキはひらひらと手を振って取りなす。
「この前に一緒に魔物討伐した際に二人も一緒やってんけどその時にわかってなあ。かわいらしかったわあ。嫌味やなくてほんまにそう思ったんよ。セティーはんの背中に向けるあの眼差し。少し上擦った声。そして紅がうすく差した頬の色。うらやましいなあ、アルドはんもあんな風にうちを見てくれたらええな思って頑張ってるんやけどなあ」
「あのね、ツッキー。あっくんにあんまり迷惑かけちゃ駄目だよ……。聞いたよ、温泉に侵入したこと」
忠告を意に介することなく、ホオズキは続ける。
「傍から見たら単なる恋慕やけど、外野からは窺い知れんことがぎょうさん詰まってんのやろね。引け目を感じる暇があったらガンガン行かへんと」
「ツッキーって自分に都合の悪い話は耳に入らないよね」
ため息を吐くイーファに、カウンターでグラスを拭くマスターが微かに頷いた。え、と視線を向けると、マスターは取り繕うように咳払いをする。
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涼しげに髪をかき上げ、ジェイドの様子を認めるとセティーは静かに目を細めた。普段と異なるのはその出で立ちで、ライダージャケットに身を包んでいる。整髪剤も使用していないのか、下ろされた髪にジェイドは心臓を高鳴らせる。
「もう帰るのか?」
そうだと返せば、じゃあ後ろに乗せてやると赤色のバイクに跨った。いつもであれば適当に断っているところだが、何となく離れがたい気持ちもあったジェイドの口から頼むと言葉が自然に出ていた。一瞬セティーは目を丸くするも、今度こそ明確に片端の口角を上げる。
「しっかり捕まっていろ」
タイヤが敷石を舐める。風を切る感覚に少しだけ心地良さを感じつつ、背中越しに伝わる体温に知らず知らずジェイドの鼓動が早まる。これほど密着した状態では気づかれているかもしれない。どうか早く着いてくれと思う一方で、今はまだこの心地の良い時間を堪能していたかった。
シータ区画に着き、エレベーター前でジェイドはヘルメットを返す。しかし受け取ったままセティーが動かないので訝しんでいると、すん、と形のよい鼻を鳴らした。
「香水でもつけ始めたのか」
サンダルウッドの。鋭い眼差しに捕らわれる。こちらのすべてを開かんと、微細な変化でさえ見逃さない。勘違いだろうとジェイドが抗弁するように上着を嗅ぐと、たしかにどこかで嗅いだような柔らかな甘い香りがした。
「別のほうがお前に合うと思う」
そう言い置き、セティーはおやすみとあっさり踵を返す。寂寥が胸を襲い、無意識にジェイドはセティーのジャケットの裾を掴む。
「どうかしたのか?」
呼び止めたものの、言葉が見つからない。澄んだ蒼色の眼には狼狽る自分の姿。どうかしている。素直になれ、と言葉がジェイドの中で反響する。他人事だと思って好き放題に言いやがる。ジェイドは内心悪態吐くが、身を委ねたい気持ちはすでに勝っていた。
「その……お前さえよければまた後ろに乗せてほしい」
湖が揺れる。透き通った虹彩は金の睫毛に覆われ、またその形を現す。
「いつでも。遠乗りでも行こう」
その言葉だけで歓喜が胸に溢れるのを感じる。手遅れだ、とジェイドはいても立ってもいられずセティーから離れる。
「送ってくれて礼を言う。じゃあ、また」
それだけ言い残し、ジェイドは待機していたエレベーターへ逃げ込んだ。
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「あんなんでよかったん?」
去る二人の背中を眺めながら、ホオズキは少し距離を置いたところに座る男に話しかけた。男はサングラスを外し、そして慣れた様子でウインクを投げる。
「上出来さ。文句無しの」
そらよろしいわ、とホオズキはふたたび清酒を呷る。
「はーくんがいたの気づかなかったよぉ」
「これでも潜伏は得意なもんでね」
ハーディーはジェイドがいた席に腰かけ、カルーアミルクを注文する。
「揺さぶりをかけてほしいなんて言われた時はうちもとうとう悪稼業に手を染める日が来たんやあとしみじみしたわあ」
「大袈裟だな。オレはキューピッド稼業を手伝ってほしかっただけだぜ。なんてったってお二人さんは奥手なところが似ているもんでな。焦れったいたらありゃしないのよ」
「せっつんのことが大切なんだね」
「でも、物分かりの良い立ち位置のままでええのん」
「アイツは大事な弟だからな、ひとりきりの」
余裕の崩れないハーディーに、ホオズキは興が削がれたと言わんばかりに肩をすくめる。
「おもんないわあ。自分ら、いい子でいるのが流行りなん」
「ご期待に沿えず申し訳ないねえ。結局、この時層ではそういう流れに行き着いたってだけだろ。心からのお礼を渡すから機嫌直してくれ」
ほらよ、と紙袋をカウンターに置く。中には大量の乾燥油揚げが入っていた。ホオズキは目を輝かせる。
「イージアまで行って買ってきたんだぜ? そらお前さんが贔屓にしている店の方がいいだろうけどよ、これだと旅路で恋しくなった時に食べられるだろ。湯をかけりゃ元に戻るから野営にぴったり」
「よおわかってるやないの。さすがやなあ。うちの出番があればまた言うてな」
「抜け目ねえな」
ハーディーは快活に笑い、盛り上がっている中心部へ向かう。その後ろに、イーファとホオズキも連れ立った。まだ終わらぬ祝宴が、時の忘れ物亭で織り成される。