第5章 漂着

 端末に触れる指先の動きが鈍くなっていく。感覚も薄れ、手袋と肌の間に薄い膜を幾層に覆われるかの感覚に本格的な冬の訪れを知る。セティーは端末を仕舞い、ガンマ区画の酒場へ足を向けた。
 この時期になると期間限定のミルクココアが何度でも飲みたくなるのだと甘党の同僚による言葉を思い出す。もっとも、彼女は期間限定と謳われた商品をその都度リピートするので、商品名が変わっただけの台詞を次の季節にも聞くことになるのは明白ではあった。
 軒先に置かれた、赤色のとんがり帽子を被った白い犬のぬいぐるみの傍を通り、店内へ入る。案内された窓辺の席からは街の大通りを歩く通行人の姿がよく見えた。席に備え付けられたパネルから注文し、それとなく窓の向こうを眺めた。誰も彼もあの赤色の帽子を身につけている。
 ほどなくして商品が運ばれる。注文したホコーヒーとは別に粗目糖が散りばめられたドーナツが机に置かれた。
「あいにく飲み物しか注文していないんだ」
「私たちからのサービスです。じつは別のお客様から注文をたくさんいただいたはいいものの、食べ切れないみたいで」
 店員の目の先にはうず高く積まれたドーナツの塔があった。銀色のアラザンシロップが照らされ眩く輝いている。
「パーティーでも?」
「いいえ。どうやら成就祈願の想いが強すぎたようです」
 訝しむセティーに、店員はエプロンのポケットから細長いメニュー表を取り出す。
「なるほど、『愛の証にエンゲージドーナツ』か。ずいぶんと大層な」
「当店の人気商品でもあるんです。このドーナツを食べさせあった二人は末永く仲睦まじく共にいられるとの触れ込みで」
「オカルトだな」
「信じる気持ちが大切なんですよ」
 店員は静かに微笑み、こちらもプレゼントですと装飾が施されたグリーティングカードを渡される。 
「メリークリスマス。良い日を」
 そこでようやく、今日が何の日だったかを知る。 
「ありがとう。君も良いクリスマスを。きっとサンタがやって来る」
「お客様のところへも来ますよ」
「だと嬉しいんだが」    
 どのような人にも平等に訪れますからと去ったその姿がセティーの目に眩しく映るのは、彼女の元にはその言葉通りに毎年やって来たからだろう。セティーは受け取ったカードを胸ポケットに入れ、昔のことを思い返す。
 
 自分の体温でぬるくなった布団に包まりながら来るべき足音に耳をそばだてる。ゆっくりと押し寄せる眠気に抗えずに目蓋は閉じ、気づけば朝日が上がる。そして枕元に置かれた大きな靴下の中に来訪者の証が収まっている。
 サンタを信じていたのは、家族と一緒に温かい家で過ごしていた時までだった。どこからともなく現れてプレゼントを渡してくれる存在が子どもへの優しい嘘だと悟った頃には夢想に耽る余裕も無く、今の今まで時を積み重ねてきた。
 あいつはどうだろうか。
 ふと、無愛想な顔がセティーの脳裏に浮かぶ。
 あの事件から半年ほど顔を合わせていない。
 ずいぶんと前に退院したとは聞いてはいた。しかしメッセージの返信が来ることはなく、そのうちセティーからも送ることをやめた。アルドを始めとした共通の仲間や知り合いからは気を遣われたものの、たしかめる勇気は日に日に失われていった。その間に周辺で発生した事象を耳にしても、捜査官としての仕事以上のことは踏み込まなかった。
 ため息を吐く代わりにコーヒーを飲む。抑えられた酸味と豊かな苦味が舌に広がる。そしてドーナツに齧りつく。子どもであれば目を輝かせていた甘みだ。思わず眉を顰め、カップの取っ手を掴もうとした時、端末が震える。
 画面には待ち望んでいた男の名前が表示されていた。鼓動が高鳴る。相変わらず文面は素っ気なく、用件だけが書かれている。
 半分も減っていないコーヒーとドーナツを急いで胃の中に収め、セティーは席を立つ。店の扉を開く一歩手前で踏みとどまり、店員にドーナツ二つのテイクアウトを頼む。そして渡された紙袋を受け取るやいなや、目的地へ向かって走り出した。
 
 ******

 潮の香りと舞う砂埃が歓待する。
 そこは最果ての島だった。降り立ったセティーは指定された場所へ向かう。
 途中で合流したレトロとクロックは、気を効かせたのか用事があると別行動を提案した。すべてわかっているのだろう、何気なく振る舞う相棒たちにセティーは礼を告げる。照れ臭かったのか、ねこメタルバンドのグッズを買わなくちゃと聞き慣れない言葉を置いて二人は瞬く間に姿を消した。
 
 人気のない海岸。踏むたびに砂が鳴り、海は静かにさざめく。いつもの陽気な声も冷静に諫める言葉も、今は何一つ聞こえない。最果ての島という名の通り、島民も少なく静かな雰囲気に、心はむしろ張り詰めていった。
 強い風が吹く。
 砂埃が目に入り、思わず顔を覆う。瞼の隙間から涙が溢れ出る。海風で冷え切った肌を焼く熱さに、貫かれた胸から流れ続ける血の熱を思い出す。息が詰まる。生気が失われ、動かなくなった忌まわしきあの光景。砂浜に残したはずの足跡は波にさらわれ、形を無くす。波打ち際で立ち尽くす。わざとらしいほどのオレンジ色をした夕陽に焼かれる。
 在りし日の真似事、もしくは重ね合わせによる昔の救済もどきか。しかしいくら埋め合わせをしようとも、すべてを失ったあの時に負った傷は、消えることもなく古傷として残り続ける。
 
『俺を、許すな……』
 あれから、息も絶え絶えに伝えられた言葉の意味を探し続けている。恨むほどのことをされたことはもちろん無く、託された願いにずっと違和感を抱いていた。失われつつある光の代わりに、あの眼に宿った意志。当てはまる表現が脳裏にちらつき、そんなはずはないと息を震わせる。
 濡れ冷えた裾の感触にようやく我に返る。足は波に浸かり、足元がじっとりと湿る。水気を吸って重くなった靴を持ち上げて新たに足跡を刻む。 
 岩群の奥であいつは待っている。頬に流れた涙を荒く拭い、セティーは歩を進めた。
 
 ******
 
 目印の岩に辿り着き、側を横切れば奥に白髪の男がいた。気配を察知し、振り返る。
「……ひさしぶりだな、ジェイド」
 眉間に皺が寄っているが、心なしかばつの悪そうな表情をしている。発言に他意はなかったが嫌味と捉えたのだろう。意を決したようにジェイドは頭を下げる。
「何度も見舞いに来てくれたというのに申し訳ないことをした」
 白銀の髪が海風で揺れる。
「やめてくれ。お前が謝る必要なんかない」
 普段とは異なるセティーの様子にジェイドは訝しむ。二人の間に沈黙が落ち、静かな波音ばかりが響く。
 口を開いたのはジェイドだった。
「お前が言っていたことが正しかった」
 水平線に夕陽が溶けつつある。西日にジェイドは目を細めた。
「どうやら俺にもあの魔力がある。忌々しいことにな」
 そして退院後に身の回りで発生した出来事をぽつぽつと語り始める。
「頭のいかれた教団の男からすべて聞かされた。馬鹿げた話だと思ったが、信じざるを得ない」
「……『輝ける民の末裔』か」
「やはり知っていたか。ならばグレイブヤードでの件も把握済みというわけだな」
「別件でマークしていた教団の動向を調査するうち、やつらがとある魔導書を信仰していると知り、その繋がりでお前たち兄妹の存在が浮上した。……二週間前だったか。ガンマ区画のホテル・ニューパルシファルにサキが運ばれた記録を発見した際、アルドに何か知らないかと聞いた」
「フン。さすがはCOA様、誘導尋問はお手ものといったところか。なら、このことも伝えておく」
 ジェイドは制服の裏ポケットから栞を取り出す。刻まれた銀色の墨が夕陽に反射する。
「悪夢にうなされることも、銀色の魔物が現れることも、もう無い。……すべては解決したんだ。だから」
 罪悪感を抱く必要などない。ジェイドはそう呟き、向き直った。 
「結果論だ。防げなかったことに変わりない」
「存外、頑固なんだな」      
 今度はセティーが顔を顰める番だった。 
「頑固も何も事実だろう。……意識を失う前に呟いた言葉、あれは一体何だ」 
「……覚えていたのか」
「忘れられるわけないだろう」
 思わずセティーの語気が強まる。そんなセティーをジェイドが静かに見つめる。 
「あそこで死ぬつもりなど毛頭なかった。だが、意志だけではどうにもならないことなど、嫌なほど知っている」
「……」 
「あの時は、死んだ俺の代わりに俺を許さない人間がいれば、贖罪の延長になると思っていた。許されず、恨まれ続けることで罪は消えず、そして……もうここにはいないみんなも忘れられずに誰かの心に残る」 
「……その役割を俺に託そうとしたのか」
 随分と勝手だ、と小さく呟く。   
「ああ、身勝手だ。それこそ許されないことだろう」
「俺がお前を恨み続けるとでも?」 
「違う。……だが、死の淵に立ったあの時、縋りついたのは確かだ。恐れていた。忘れ去られることを。でも、それは間違いだとすぐ気がついた。苦しそうなお前の顔を見て」
「……」  
「会わなかった間、考えた。そしてようやく……わかった。お前が俺にしてくれたことの意味を。助けようとしたんだろう」
「……それは」
 慈しみを滲ませた眼。普段は険しい紅色の虹彩が、今だけは優しい。ジェイドの姿が滲む。
「どうにも俺はお人好しと縁があるらしい。そしてやつらは揃いも揃ってその優しさに無自覚だ」
 押し黙ったセティーに近寄り、ジェイドはそっと人差し指の背でその頬を撫でた。
「ありがとう。ずっと言いたかった」    
 指が涙で濡れる。構わず、流れ落ちる涙をジェイドは受け止め続けた。    
 
 ******

 太陽は海に溶け、天辺に瞬く星。長い間、二人は波打ち際に座っていた。
 遠くではあるが、鳴り響く低音と共に猫たちの叫び声が聞こえる。随分と盛り上がっているようだった。異様な熱狂具合にセティーは気圧される。 
「一体何の騒ぎなんだ……?」
「おそらく『ねこメタルバンド凱旋ツアーライブ』だろう」
「え?」
 訝しむセティーにジェイドは鞄からチラシを取り出した。 
「宿屋の主人が言っていた。島民はすっかり夢中らしい」
 チラシには『新進気鋭のバンドニャンの魅惑的なシャウト! シャウト! ニャオニャオニャオ!』というすぐには理解できない文言が記載されている。
「この島は猫によって占領されている」 
「……おい、この猫ってヴァルヲじゃないか?」
 セティーが指差した先にはどこか得意げな様子の黒猫がいた。
「飼い主に似て、何でもやるんだろう。いつの間にIDAの学生になっていた時はさすがに驚いたが」   
「よくそんな理屈で納得できたな……。そもそも、ねこメタルバンドって何だ」
「知らん。気になるのなら今から行くか?」
「いや、ここでも十分聞こえるからいい」 
 寄せては返す波を見つめる。そっと息を吐くと白い湯気となり大気へと消える。冬の海は体が冷える。二人は自然に寄り添った。やがて触れた肩に熱が生まれる。
 そういえば、とセティーは持ち運んでいた紙袋の存在を思い出した。取り出したドーナツはすっかり冷えている。
「プレゼントだ。メリークリスマス」
「いつの間にサンタ業でも始めたのか」
「まあそんなところさ」
 セティーからドーナツを受け取ったジェイドはアラザンシロップのコーティングをじっと見つめると、セティーの口元へ近づけた。
「……プレゼントを受け取らないとは。もしや甘味は嫌いだったか?」
「そんなことは言っていない」
 意図が見えず様子を伺うが、紅色の目に見つめ返されたセティーは観念して口を開ける。
「もう少し甘さが控え目だとよかった」
 齧りつきながら、セティーは手元の紙袋をまさぐってもう一つのドーナツを取り出す。
「さすがに二つは無理だ。食べてくれ」
 頷いたジェイドはセティーの手首を引いてドーナツを口に含んだ。自分の手で持てよと言おうとしたものの、伝わる体温の心地よさにセティーは言葉を飲み込んだ。そのまま二人は奇妙なスタイルでドーナツを貪る。苦慮しつつも食べ切り、セティーが息を吐いた。
「イージアでの件、まだ根に持っているだろ」
「……」  
「まあいい。それよりも、口直しにコーヒーが飲みたくないか? 最近、良いコーヒー豆を購入したんだ。ジェイド、お前がよければの話だが……」
「この時間帯だとコロナ・トラットリアも閉まっているだろうな。おまけに、釣り狂いどものせいで寮に置いていた冬用の布団も燃えてしまった」
 立ち上がったジェイドは大きく深呼吸をした。
「……セティー。邪魔をするぞ。あいにく、手土産を持ち合わせてはいないがな」  
 口角が、微妙に上がっている。注視しないと気づけないほどの些細な変化。茫然と見上げるセティーを、ジェイドは待ち続ける。
『信じる気持ちが大切なんですよ』
 静かに微笑んだ店員の言葉。銀色の輪に込められた祈りのような迷信。頬に伝わる指先の震え。
 スローモーションに映る光景、そしていくつかの事象。消え去ってしまわないように、セティーは目蓋を閉じた。  
 いつの間にかメロディはクリスマスソングへと移り変わり、猫の声と共に鈴の音色が砂浜に鳴り響く。セティーの胸ポケットでサンタがメリークリスマスと笑っていた。

close
横書き 縦書き