第4章 発露
乾いた風が吹く。今や未踏域となった地の大陸から塵芥が舞い、遠景が霞む。歩き辛さを覚える。踵を掴み、底を見るとゴムソールが擦り減っており、替え時と思えた。今から向かう依頼の報酬金の使い道が早々に決まり、小さく舌打ちしたジェイドは体勢を元に戻す。
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急な依頼だった。
昼前に講義が終わり、しかしどこかへ立ち寄る気力もなければ自治寮へも何となく帰り難く、結局ジェイドは缶コーヒーを片手に人気の少ない場所に佇むベンチに座った。補整された道路を逸れ、校舎と校舎の間を突き進めばそれはあった。積もる落ち葉を払えば予想よりも真新しいシルバーの座面が現れる。ベンチを覆い隠すように植樹された木々の存在が切り離された空間を形成しており、そのことが何よりもジェイドにとって有り難かった。鬱蒼と生茂る葉の重なりで射し込む光はなく、吹き荒ぶ風も止んで葉擦れの音も聞こえない。
勢いよく缶の中身を喉に流し込む。少し落ち着けば気持ちも治まるだろうかと期待したが、むしろ苛立ちは倍増するのみだった。普段よりも舌に纏わりつく味に違和感を抱き、よくよく見ればそれはいつもの無糖コーヒーではなくカフェラテであった。瞬間、残りも飲み干し、ベンチ横のゴミ箱へ投げ捨てようかと振り上げたものの、馬鹿らしくなりそっと銀色の網目状の箱へ缶を落とす。耳障りな落下音が遅れて反響する。他にゴミは入っていなかった。
気が滅入っていることは明らかだった。
復寮祝いと称された夕食の帰り、何かに突き動かされるように情動を形にしたのがいけなかった。応じるように相手から引き出された言葉は、いくら掻き消そうとしても頭から離れることはなく、ふとした瞬間に蘇るあの光景にジェイドは苛まれていた。浮つく感情に答えを求めた結果がこのざまだ、とジェイドは自嘲を試みるも顔は強張り笑うことさえ上手くいかない。
ベンチへ戻り、蹲るように頭を伏せる。
傍に置いた鞄が不規則に振動する。放置したままの端末を確認しなければ、と思いつつも手は伸びず依然として顔を覆ったままだった。手の平に汗が滲む。もうすぐ冬が来るというのに、漂う生温い空気が肌を舐め、熱は籠り、しかし喉はたまらなく渇く。鼓動が早くなる。頭が締めつけられる。耐えるように皮膚に爪を突き刺す。視界に光がちらつき、意識が遠のきかけるその瞬間、声が聞こえた。 猫だった。
配達帽を被った猫がいつの間にかジェイドの足元に座っている。我に返ったジェイドはシャツの襟元で汗を拭い、猫を見返す。険しい目つきに意を介すこともなく猫はただジェイドを見つめていた。よくよく見てみると、首から下げられた鞄から封筒が少しはみ出ていた。取れば、宛先にジェイドの名前が書かれている。手紙を届けたことを確認した猫は背中を向けて走り出す。待ってくれ、と勢いよく立ち上がった拍子に何かが落下する音がし、視線を向ければ捨てたはずの缶が転がっている。ゴミ箱が倒れて中身が出たのかと思うもあったはずの場所にゴミ箱自体が無い。果てまではベンチまでもが姿を消していた。缶を拾えば中身があり、封は閉ざされたまま。缶のパッケージには無糖コーヒーと印字されている。いつの間にか風は吹き、汗ばんだ肌を撫でる。猫は既に次の配達先へと去っている。手紙の裏を返せば『アルドより』とある。
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あれから手紙の内容を確認したジェイドは、その足でガンマ区画へ向かう。集合場所に指定されたイシャール堂前へ着いた時にはすでに人数が集まっていた。気配を察知したヴァルヲがひと鳴きし、飼い主が振り返る。
「急な呼び出しだったのに来てくれてありがとうな。大助かりだよ」
ジェイドの姿を認めたアルドが人好きのする笑顔で近づく。
「お前は大袈裟すぎる」
「本当だってば。何せ未来の技術に関してはまだまだわからないことが多いからな」
ジェイドの胡乱な目を意に介することもなくアルドは続ける。
「手紙にも書いたと思うんだけど、合成人間が残したビットやアガートラムの処理、というのが今日の依頼なんだ」
「相変わらずお前がお人好しなのはわかった。だが、なぜお前がわざわざこの時代まで来た? 通常、そういう類は傭兵やEGPDが対応するはずだろう」
「あら、ジェイドにはまだ伝えていなかったかしら?」
いつの間にか集団の輪から離れたエイミが説明を続ける。
「はじめは私宛てに依頼が来たのよ。相手は昔請け負った討伐で知り合った人なんだけれど、ビットたちが運路を塞いでこのままだと商売にならないって泣きついてきたの。それで事前調査したら、攻撃する箇所や武器によっては迎撃される危険性があるとわかったわ。加えて、その規模が私一人では手に余ると判断したからみんなの力を借りようと思ったわけ。アルドの一声があればすぐ人が集まってくるから」
「フン」
「不機嫌な顔しないの。報酬は弾んでくれるみたいだし、夕ご飯もご馳走するわ。エルジオンの酒場でステーキなんてどう?」
ステーキ、との単語にジェイドは鉛を呑み込んだかのような不快を喉に感じた。
「……俺は別にいい」
「ふーん、そう。ジェイドがいいなら無理にとは言わないけれど。あの子たちはどうかしら」
エイミの視線の先には、楽しげに談笑しているフォランとルーフスがいた。
「メンバーは今いる人数で全員なのか?」
「いいえ、あと一人。ちょっと無理を言ったんだけど来てくれるって。策を立てるには優秀なアナリストが必要でしょう?」
急な呼び出しだったから少し遅れてくるみたいだけど、との発言にジェイドは胸騒ぎを覚えた。
「……この依頼、俺が出る幕はないと思うが」
「なに急に弱気になっているのよ。必要がなければわざわざ呼ばないわ」
「ジェイドらしくないな。もしかして体調が悪い?」
「いや、そういうわけでは……」
追跡から逃れようと視線を逆方向に向けた時、近づいて来る人影を捉えた。
「すまない、遅くなった」
「ヒーローは遅れて登場! お待たせっ」
「いつからあなたはヒーローになったのですか、ポンコツ」
相棒のレトロ、クロックを引き連れたセティーは一同に挨拶する。目を逸らしたジェイドを除いて。しかしジェイドの胸中を預かり知らぬレトロはずいずいと近寄っていく。
「ジェイドもステーキディナー以来だね。元気してた〜? 急にいなくなっちゃうからビックリしちゃった」
一瞬動揺するが悟られまいとジェイドは無愛想に答える。
「いつもと何も変わらん」
「でもさー、最近元気無いってサキが心配してたよ! ちゃんと寝れてないんだって?」
たしかに目元に隈ができているねとフォランがジェイドの顔を覗き込む。澄んだ灰色の眼に映り込む己の姿が思いの外正気がなく、ジェイドはたじろぎ、後ずさりそうになる。が、その時、黒手袋を着けた手が上がる。
「最後に来た人間が言うのは申し訳ないが、早速状況の共有をしたい」
セティーはごく自然に間に割って入ると、エイミに視線を向けた。
「私もちょうど詳細を固めたいと思っていたわ。そうね、出発の頃合いとなったことだし、みんなエアポートへ向かいましょう。移動しながらでいいわよね?」
了解だ、とセティーの返答によって面々は目的地へと移動し始める。しかしジェイドは茫然と立ち尽くしたままで、振り返ったアルドが手を振る。
「オレたちも行こうか」
「……ああ」
ジェイドは我に返る。先に歩くセティーの後ろ姿に、居心地の悪さを覚える。こちらに何も言うことはなかった男に、突き放されたかのような絶望を抱くのは筋違いだ。あの夜去ったのは自分だ。頭を振り、集団から遅れて歩み始める。
******
規則正しい巡回の足音。監視用ビットから漏れる電子音。
積み重なったコンテナに身を隠し、エイミとセティーとその相棒、そしてジェイドは機会を伺っていた。
あの後、エアポートへ到着した一行は、二手に分かれて行動することとなった。数は少ないものの高い耐久度が想定されるエリア仮番号Aにはアルド、ルーフス、フォラン。耐久度は仮番号Aほど危惧するほどではないが数が多いとされるエリア仮番号Bにはエイミ、セティー、ジェイドが担当することとなった。
配置指示を受け、すぐさまジェイドが抗議を試みるも、やってやるぜとルーフスが拳を掲げながら真っ先に仮番号Aに突っ走り、その後ろ姿をアルドとフォランが慌てて追ったため、ジェイドの開いた口は何も紡ぐこともなく再び閉ざされた。
「さっすがエルジオンのヒーローだね!」
「というよりもただの猪突猛進では」
「……まあ、アルドとフォランがいれば何とかなるでしょう」
半ば呆れた様子でエイミはため息をつき、私たちも行きましょうかと面々は持ち場へ向かう。
仮番号Bへ着き、コンテナの後ろから様子を伺う。上空にビットが浮遊し辺りを警戒。
「あれだと配達用ドローンどころかカーゴシップも動かしようがないわね」
「ビットの追撃から逃れても、奥に待機しているアガートラムで一人残らず処理をする算段だろう」
「管理していた合成人間のグループは数週間前に殲滅されたらしいけれど……、放置していれば悪意を持った輩に再利用される可能性もある。もちろん人間だって例外じゃない」
翳った表情を振り払うように、エイミは拳を握り締める。
「アガートラムは私が処理するわ。ビットに察知される前に距離を詰める。その間、念のためレトロとクロックも借りてもいいかしら」
「問題ない。レトロ、クロック。エイミが目的地に辿り着いたら戻ってこい」
「合点承知の助!」
「了解です」
じゃあね、と動いたエイミにレトロとクロックが続く。残された二人は、しかし互いに目線を合わせることもなくただ正面を見つめていた。しばらくしてセティーが声をかける。
「久しぶりだな、ジェイド」
「……」
その発言の意図するところ、字義通りではなく裏に持たされた感情を探るものの、答えは見つからず結果的にジェイドは沈黙で返す。
「随分とすげない態度を取る」
セティーは額に貼りついた前髪をかき上げる。
「懐かれたいのなら人選から考え直すことだな」
「俺はお前と話をしたい」
「お前と話すことは何もない」
「ならせめて目だけでも合わせろ。私情で今回の目的に支障を来す真似はよせ。まさかピクニックをするつもりでここまでのこのこやって来たのか?」
「なっ……」
あからさまな煽りにジェイドは激昂し、振り向く寸前にエイミの鋭い声が耳を刺す。
「勘付かれたッ、構えてッ!」
即座に得物を掴み、物陰から這い出る。ビットが目視で二十機飛来。その後ろに大型のアガートラムが機体を揺らしながら近づいてくる。エイミは真っ先にアガートラムの元へ向かう。ジェイドは槍に炎を込め、ビットの群衆目掛けて放出。いくつかは飛散し、生き残った機体の砲口がジェイドに向く。発射。
弾丸を避け、一機の背後へ回り込む。パーツとパーツの隙間に槍頭を力ずくで突き刺す。ビットの動作が一瞬停止したのを確認し、抜いた槍を抱いて蹲る。轟音。煙を立て爆発した反動で身体は思わずよろけてしまう。
濛々と立ち込める煙に目が染み、揺れる視界。太腿に鋭い痛みが走る。先程の爆発で制服が破れ、皮膚から血が滲んでいる。見れば、至る所が破れており、ジェイドは浅く息を吐いた。
煙が晴れ、遠方をまなざせば、セティーが同型のビットを複数相手取っているのが見える。無駄のない統一された動きで放射を潜り抜け、相棒とともに距離を詰め、叫ぶ。
「クロック! 頼んだぞ」
「承知しました。対象ビットをハック中……。二十、六十、……成功。迎撃プログラムを解除致しました」
敵意を喪失したサーチビットの群れは銃砲を構えることなく上空を漂う。
「よくやった」
「クロック格好よかったよ〜! ホレボレしちゃった!」
「ポンコツに褒められても嬉しくはありません」
「ひ、ひどい……」
レトロが項垂れるその後ろで、エイミがアガートラムを一人相手取っていた。ドリルアームを避け、コアに連続で拳を叩き込む。仰向けに傾く機体。
「はあああああぁっ!」
その隙を逃さず、咆哮と共に力を込めた強烈な一打によりコアが砕け散る。
バランスを崩し、ゆっくりと地上へ落ちようとする巨体。しかし、アームが急に動きエイミの服を掴んで共に引きずり落とそうとする。
「エイミ!」
「諦めが悪いのもいい加減にしなさい!」
鍵爪に引っ掛かったジャケットをエイミは迷うことなく引き裂き、アームから踏み飛ぶ。
「レトロ、クロック! エイミを頼む!」
「アイアイサー!」
「お安い御用です」
すぐさまレトロとクロックがエイミを掴む。「ナイスキャッチ! ありがとう!」
「もっと褒めていいよ〜!」
「エイミ。これ以上調子に乗らせると困るので無視していいですよ」
エイミたちはそのまま別のプレートパネルへ移動し、姿が遠くなっていく。遅れて地上から轟音が響き渡る。
汗が顎を伝う。しばらくしてセティーの端末が鳴った。
『フォランだけど、こっちは何とか終わったよ! さっき爆音が聞こえたけれど大丈夫?』
「こちらも終了だ。クロック、聞こえているか?」
『はい、こちらクロック。エイミとポンコツと共に安全な場所へ待避しています』
『どうなるかと思ったけれど助かったわ。対象はすべて処理完了ね。フォランやセティーたちもガンマ区画に帰還してちょうだい』
『オッケー!』
「了解した」
通話を切り、セティーはジェイドに向き直る。その時初めてジェイドが傷だらけであることに気がつき、顔を顰める。
「お前、俺の説明を聞いていなかったのか。爆発を避ける攻撃の方法」
「倒せれば文句は無いだろう」
「……結果論はな。帰ったら手当てだ」
戻るぞ、と背中を向けたセティーの後ろから何かが光る。思わず身震いしたジェイドは信じられない光景を目の当たりにする。
突如、床面からずるずると現れた、騎士を模した巨大な銀色の機械。腕と一体化した銀色の剣。未だかつてどの時代でも見たことのない造形に理解は追いつかず、いつの間にか槍は手から滑り落ち耳障りな音を鳴らす。
機械仕掛けの騎士はセティーを見つめていた。そして、ゆっくりと銀色の剣を天に掲げる。無音。研ぎ澄ました刃にうつくしく光が注がれる。秒針のごとく規則正しい動きで刃先がセティーの背中に向けられ、そして騎士は突如駆け出す。
考えなどなかった。
「セティーッ!」
ジェイドがセティーを突き飛ばす。
自身も凶刃から逃れようとするが、擦り減ったゴムソールによって体勢を崩す。
一瞬だった。
銀色の剣は背後から稲妻を裂き、貫く。
勢いよく引き抜かれ、突如生まれた穴から噴き出す血。禍々しいほど鮮やかな赤。身体は力を失い、前のめりに倒れる。
突然受けた背後からの衝撃にセティーは振り返り、惨状を目にする。
激しく噎せたジェイドの口から血が吐き出される。血は依然として胸から流れ続け、駆け寄って抱き起こしたセティーの白いジャケットを赤く汚す。穏やかに機械仕掛けの騎士が見つめている。彩色を宿した刃から滴った血が地を濡らす。
「ジェイド!?」
呼びかけにうっすらと目蓋を開き、血と同じ色をした虹彩が現れる。
「大丈夫か!? すぐに病院へ連れて行くからそれまで気を保て!」
流れ出る血とは正反対に、徐々に血の気を失っていく頬にセティーは手をそえる。しかしその手は、弱々しく動かされたジェイドの手によって退かされた。
「俺を、許すな……」
「え……?」
呆然とするセティーの後ろにいた、機械仕掛けの騎士は徐々に薄くなり、消えた。災厄が通り過ぎたことを確認し、安堵したジェイドの目蓋は途端に重くなる。投げられる言葉もその輪郭を掴むことなく、意識を手放す。
******
洗濯されたばかりのカーテンが揺れ、隙間からIDAに林立する校舎が見える。夕陽が部屋の隅々まで射し込み、ジェイドの白髪を染める。
控えめなノックがあった。次に名乗り。
「イスカだ。失礼するよ」
扉は開かれ、現れたイスカが挨拶をする。腕には頭ひとつほどの大きさをした籠が下げられていた。
「気分はどうかな」
「……どいつもこいつもわざわざこんなつまらん場所に来るとはな」
「水臭いこと言わないでくれ。道すがら、美味しそうなフルーツを見つけたものでね。気に入ってもらえると嬉しいのだけれど」
そう言い、イスカは籠の中身を向ける。色形様々な果物が収まっており、そのどれもが色艶の良いものであった。
あれからジェイドはエルジオン医大付属病院へ運ばれた。傷口は深かったもののなんとか一命を取り戻し、当面の間は入院することとなった。
目が覚めたのはそれから三日後のことであった。サキに抱き締められた時は現状に理解が追いつかず、しかし耐えるように震える体に気がつくと大丈夫だと囁きながら丸みを帯びた黒髪の頭を撫で、一人きりの妹を悲しませたことにジェイドは胸を痛めた。
聞きつけたアルドやエイミ、他のメンバーも続々と駆けつけ、個室ではあるものの廊下まで響いていたのかその後の病室訪問には入室制限がかけられてからは馴染みのある面々が主に来るようになった。
アルドとエイミの何度目かの訪問の際、両方とも何か言いたげな表情を浮かべていることにジェイドは気がついた。しかし問い質すことはついぞなく、二人も口にすることはなかった。代わりに、退院祝いにみんなで食べに行きましょうとエイミは言った。俺はいいと断る隙もなく、今回はジェイドが主役だから絶対参加だぞとアルドは笑い、じゃあまた来ると旅人二人は去っていった。それからほどなくして別の訪問者が現れ、それも去った後にイスカが入室し、今に至る。
林檎を掴み取り、付属のナイフで手際良く皮を剥く。シャリシャリという音とともにに黄金の地肌が現れ、白磁の皿に載せられた時には見事な櫛形が出来上がっていた。
「よければどうぞ」
「……」
「うさぎさんをご要望だったかな」
「そんなことは言っていない」
「ふふ。サキから昔話を聞いたものでね。風邪を引いた時にうさぎさんの形をした林檎を食べさせてもらったと」
過去の事を掘り返され複雑な表情をしたジェイドは打ち消すように林檎を齧る。瑞々しい汁が溢れ飲み込んだ時にはじめて喉が渇いていたことを自覚した。
「……美味しいな」
ベッド傍の椅子に座ったイスカは微笑む。
「それはよかった。選んだ甲斐がある」
「お前は食べないのか」
「ご相伴にあずかりたいところだけれど、実はこの後IDEAの作戦会議があってね。残念ながらお預けさ」
「校舎に病院に、わざわざご苦労なことだな」
「これくらいどうってことないさ。それよりも、彼とは話したのかい」
「誰のことだ」
「はぐらかしても無駄だよ。ほら、今もメッセージが来ている」
ジェイドは見ることもなく、点滅する端末の画面を裏に向けた。
「……勝手にあいつが罪悪感を抱いているだけだ、何も悪くない癖に」
「だから彼が見舞いに来た時も寝たふりを続けているんだね」
「な、なぜそれを」
「なに、カマをかけただけさ。さきほど憔悴した様子で病室から退出する彼を見かけたものでね。君のことだから単にどんな顔をしたらよいかわかりかねているのだろうけれど」
いつぞやの、ミグランス王朝時代にて目の前の少女と共に舞台へ上がった演目がジェイドの脳裏に浮かんだ。鹿撃ち帽を被り、滔々と推理を語る探偵は観客の喝采を博し、鳴り止まないカーテンコールが蘇る。あるはずのない帽子を幻視し、怯んだジェイドをイスカは平時と変わらない透き通った眼で見透かした。虫眼鏡越しに対象をまなざす、あの眼で以って。
「お前には関係ないだろう」
「他人を巻き込まず、己の力で解決するその姿勢は美点だが、すべて一人で抱え込んで苦しむことは果たして最善と言えるのかな」
「何が言いたい」
「誰かに相談してはどうかなとの提案さ。君にはたくさんの仲間がいるんだからね」
もちろんその誰かとは私のことも含まれているのだけれど、とイスカは微笑む。
「君は優しい。だからこそ一人で受け止めようとする。でも、その優しさの結果が時として周りの人を悲しませることを知っておいてほしい」
「それを言い始めたら他の面子だって該当するだろう。あの時空を超えたお人好しのアルドも、学園の秩序を守るお前たちIDEAも、あいつだって……」
ジェイドが思わず閉じた目蓋の裏に、名前を叫ぶセティーの姿が浮かんだ。罪悪と呵責、そして悲痛。平時は涼しい表情があそこまで崩れるのかと遠退く意識の中でジェイドは驚いた。事態を把握し今にも泣きそうな男に少しでも安堵させようと掛けた言葉の、その続きは、たしか言えずじまいであったことに今更ながら気づく。
そんな顔をしてほしくなかったのだ。
ジェイドがセティーを突き飛ばした意味も既に理解しているだろう。ただ偶然の結果に過ぎないというのに。翳る表情を一つでも晴らしてやりたいこの願望、理由を辿ればはるか異郷で見た清々しい笑顔に行き着く。
もうとうの昔に答えは出ていた。そして恐れゆえに封をした。覚束ない自信、過去の呵責。手を伸ばすこと自体諦めた。つもりだった。
「君が彼に対して感じたこと、そのすべてが答えだ。素直になれとは言わないが、芽生えた気持ちを目を瞑ったまま踏み潰すのは違う」
それきり、イスカは口を閉ざし病室の向こうへ視線を向けた。ジェイドが顔を上げると、イスカの丁寧に切りそろえられた髪は夕陽に燃え、眩しさで微かな皺が刻まれた額が目に入り、ようやく目の前の人物の抱く感情の機微を悟った。
「イスカ」
「何だい」
「……すまない。そして、礼を言う。ありがとう」
「仲間なのだから当然さ」
そろそろお暇するよとイスカはゆっくりと椅子から立ち上がる。その顔に先ほどの揺らぎは姿を消していた。
退出する寸前、イスカは振り向く。
「先程の言葉、彼にも伝えるといい」
痛いところを突かれ返答に詰まるジェイドに年相応の悪戯めいた笑みを残し、白制服と共にイスカは扉の向こうへ去った。