共に見た夢

「マスター!! どこにいらっしゃいますか!? 返事を!」
 サンソンは声あらん限りに叫ぶが反応はない。
 レイシフトの誤作動でマスターである少年とともに舞い降りた土地は見知らぬ荒野。途方にくれた黒衣の男、サンソン以外にレイシフトをしたサーヴァントはいなかった。
 なんとしてでも少年を見つけ出してカルデアに帰還せねばならないが、歩を進める度に自身の魔力がだんだん減りつつあるのをサンソンは感じていた。普段はカルデアの電力を基にした魔力供給をおこなっているため特段気にかけたことはなかったが、こうしてカルデアからの通信が途絶えた以上、状況はかなり深刻であると認めざるを得ない。
 気ばかりが急く。ふたたび呼びかけても砂埃のみが舞うだけだった。

 道中、崖の上で興奮した様子のワイバーンに遭遇する。禍々しい爪にはこびりついた血。サンソンの姿を確認したワイバーンは雄叫びを上げる。
 嫌な予感が胸をよぎった。
 刃を握りしめる。汗によるぬめりがそこにあった。走り出し、助走をつける。跳び、その顔に刃を突き立てようとした。
 しかしその前に飛竜が強く羽ばたいた。その衝撃波で思わず倒れてしまう。上半身を起こし前方を睨むと、そのワイバーンは咆哮を上げようとしている。
やられる前にやらねば命はない。
 サンソンは宝具を展開する。魔力が不足しているゆえ、不完全だ。しかし、迷っている暇はない。突如現れた巨大なギロチンに驚いたワイバーンは口を閉じる。首に黒い複数の手が絡みついた。その隙に、刃を落とした。
「ラモール・エスポワールッ!!」
 耳慣れた忌むべき切断音が響き、ごろりと飛竜の頭が転がる。切断面から血しぶきが上がり、着ていた白いシャツは赤く染まる。頰にも付着した血をぬぐっていると、どこからか微かにうめき声が聞こえる。
 辺りを見渡すが絶命したワイバーンしかいない。よもやと思い、崖下を覗くとそこにはくぼみがあった。どうやら洞窟になっているらしい。目を凝らすと物体が動いているのを捉えた。
 サンソンが探し求めていた人物、マスターがそこにうずくまっていた。
「マスター! そのお怪我はどうされました!?」
「サンソン……?」
 崖下に降り立ち、少年の元へ寄る。
 身に包んでいるカルデア魔術礼装はその白さを血の赤で失っていた。体のいたるところに出血が見られ、あきらかに重傷であった。
「ワイバーンにやられた。致命傷になりかねない攻撃こそ回避できたけど、はずみでここまで落ちちゃった。応急手当はしたけれどまだ血が出ているという感じかな。……サンソン、その血は?」
 動揺の蒼に眼差される。ワイバーンとの戦闘で浴びた血が付着した白いシャツが目線の先にあった。
「先ほど宝具で仕留めたワイバーンのものです。お気になさらず」
「そっか、それならよかった……」
 自身が重傷だというのに他人の容態を気にする様に、サンソンはえもいわれぬ感情が胸にうごめくのを感じた。
「……早急に医術を施します」
「待って。魔力はどうなっている? 宝具を使ったのなら余裕はないだろ」
 少年の指摘どおりであった。宝具を使用してからというものの体の重みが増し、とても緩慢だ。これでは少年に医術を施すどころか抱きかかえることも敵わないだろう。依然としてカルデアとの通信の兆しはみえない。
 少年が小さく唸る。なんとかしなければ、という焦燥感のみサンソンの中を駆け巡るのだが果たしてどうすればよかったのだろう。
「……前にダ・ヴィンチちゃんから教えられたことがある。カルデアとの通信が途絶えた際の魔力供給のことなんだけど」
 少年はそう言って口を噤んだ。続きを言うことをためらうかのようだった。
「魔力供給ですか」
「そう。だから頼みがある」
 鼓動が早まる。その先の言葉を予想してしまう。しかしそれを悟られぬようサンソンは冷静なふりをして、なんでしょうと訊ねた。
「サンソン。俺と口づけを交わしてくれ」
 少年の唇はふるえている。
 ともに、自身の鼓動がはやまっていることをサンソンは感じていた。

 本来であれば粘膜接触を密に交わす性行為のほうが魔力供給の効率は良い。しかしながら少年が満身創痍であること、かつこうした非常事態下にあっては性的な興奮を即座に得ることは困難かつ危険であるだろうとの判断で口づけでの魔力供給が提案された。
「先に謝る。……申し訳ない。これから、あなたには嫌な思いをさせる。幸い、令呪はまだ二画あるから強制されたと思ってくれたらいい。帰還してから怒りは受ける」
「……マスター」
「焼け石に水かもしれないけれど、無いよりはましだろう? ……目を閉じて」
 少年の右手に刻まれた令呪が光り始める。そして命令を告げようとした少年の唇をサンソンは自分のもので塞いだ。
「!」
 血の味がする。しかし魔力が溶けている血はサンソンにとって甘くとても瑞々しいものであった。切れた唇から溢れ出た血を丹念に舐めとる。
 当初はこんなことで貴重な令呪を使用するのはもったいないとの判断だった。しかしこうして魔力摂取をしていると、この口づけこそが自身の目的であったのではないかとサンソンは自分を疑ってしまう。
 驚きのあまり少年は身をそらすが、それを許さず後頭部を押さえる。口は頑なに閉じられていたが、サンソンは一旦少年から口を離すとまるで幼い子に言い聞かせるように優しく声をかけた。
「どうか、お口をお開きください。苦しいでしょうが魔力供給のためです」
「わ、わかった」
 動揺しているのか目をそらす少年だったが、意を決して口を開く。丁寧に揃えられた歯列とその中に収まる舌。緊張で縮こまるそれを丹念に味わいたいとの欲望が芽生え、サンソンは右手で少年の顎を掴むと舌を侵入させた。
 水音が響く。
 血も良かったが、口内も相当なものだった。まるで麻薬物質が分泌されているのではないかと疑うほどの快楽性、いつまでもそれに身を委ねていきたかったが、今はマスターの身の安全が第一である。医術に必要な魔力が補給できたことを確認したサンソンはあらためて唇を離した。
 息も絶え絶えな少年の手を握ろうとしたサンソンだったが、踏み止まった。
「無体な仕打ちをしてしまい申し訳ありません。十分な魔力を得たので今から医術を施します」
「……頼んだよ」
 微かに少年の耳が赤くなっていたことを、サンソンは気づかないふりをした。

 あれから、サンソンが施した医術によって少年の体は何割か回復をした。そして数時間後にはカルデアからの通信が復旧し二人は無事にカルデアへ帰還する。
 負傷した少年はすぐさま医務室へ運ばれ、サンソンも医師として付き添おうとしたがロマニに静止された。
「君もだいぶ疲弊している。ここらは僕たちに任せてゆっくりと休みなさい」
「ですが……」
「大丈夫。キミの処置のおかげで大事には至らないから、ね?」
 ロマニは穏やかな笑みを向ける。観念したサンソンは頼みますと頭を垂れ、少年の容態がはやく良くなることを祈った。

*****

 レイシフトの誤作動から一週間、普段通りに業務を遂行していた。しかし、あれからというものの少年を目にする度に魔力供給のことが思い出され、挙句の果てまではもう一度口づけを交わしたいなど他人には言えない欲が脳裏にかすめていることにサンソンは悩んでいた。
 サンソンは少年がマスターとなった初期の段階−−あの忌まわしき爆発事故の日である−−にサーヴァントとして召喚に応じていた。積もる瓦礫、その下に潰された人間、人間から流れた血、漂う硝煙。どれもこれも少年が今まで送っていた日常ではありえない光景であり、少年に待ち受けるであろう、過酷な運命のはじまりを観測したのだ。そして、恐怖により蒼白となった顔ながらも、震える足を叱咤して立ち向かった少年の姿を見て、己が彼の刃にならなければならないとサンソンは決心をした。少年が正しくある限り、その意志に従う刃。
 であるからこそ、現状に懸念を抱いていた。サンソンはサーヴァントであるこの身が人類最後のマスターである少年を惑わすことなどあってはならないと考えていた。〈秩序・悪〉である己こそが、少年にとって正しくあることへの指針でもなければならないのだ。人理焼却へのリミットが刻々と迫っている今、他のことに杞憂している暇はない。
 加えて、サンソンは処刑人である。このカルデアにはかの王妃、マリー・アントワネットもいる。彼女と再会できたことは純粋に嬉しかった。しかしながら、やはり己のギロチンで彼女の首を刎ねたことは変わりなく、血はこの手にこびりついている。そんな己が主である少年に捧げられるのは、うなじに刻む死の首輪。死出への贈り物。甘やかさなど、唾棄すべきものだとサンソンは諦観していた。
 浅ましき欲がある以上、不必要に接触するのは避けるべきであった。この欲自体、魔力供給ゆえの快楽の名残が渦巻いているものに過ぎない。それ以上もそれ以下でもない。
 サンソンは肩の馬を撫でる。
 それは相変わらず無機質で、冷たかった。

「今日は剣・騎クラスの種火収穫の日です。種火収穫班は今から一時間後にエリア入口に集合してください。午後からはレイシフトを行います。編成については後ほど発表しますので追って連絡します。では今日もよろしくお願いします」
 毎朝七時に食堂に集まるのがこのカルデアでのルールだ。本日の業務、報告、注意事項を共有し、解散する。後は食事を取るか、鍛錬に励むか、再び寝るか、とそれぞれ思い思いの行動をとる。
 サンソンはというと、医務室の備品が少なくなっていることを思い出し、倉庫へ向かっていた。
(しかし、随分と増えてきたものだ。)
 カルデアを襲った爆発により、多くの死傷者が出た。46名のマスター候補生も凍結保存された。五体満足の人間はわずかで、召喚時のカルデアの雰囲気は悲惨たるものがあった。だがそれもサーヴァントの数が増え、賑やかになりつつある今ではあの日の光景は影を潜めつつある。
(だが結局、人理を修復せねば彼らを蘇生できない。……爆発で亡くなった人々も報われないのだ。)
 あの日、少年はわけも分からず召喚を行った。極寒の冬山、見知らぬ世界、爆発、そして人理焼却。混乱していたのだろう。少年はサンソンに請うた。
「ど、どうか、みんなを助けてください」
 硝煙と血の匂い。瓦礫の下には人の体。
「これは……」
「何もかもわからないんです、いや、犯人はわかっています。でも消えてしまいました。ここにあるのは、巻き込まれた人、逃れた人、俺、そしてあなたなんです」
 顔面が蒼白だった。何とも頼りない姿だった。だが、サンソンはそのことを咎めるつもりはなかった。
「事情はわかりました。最大限対応いたします」
 少しでも安心させようと微笑んだ。少年は涙で揺れる目で頷く。思えば、あれが人類最後のマスターとしての自覚が芽生えた瞬間なのかもしれなかった。

 あれから、生き残った職員や新たに召喚に応じたサーヴァントの手を借り、瓦礫は撤去し、亡くなった人々にはしかるべき対応をし、おおよそ三週間ほどで現場は跡形もなく綺麗に整備された。もう瓦礫も、それに埋もれる人間の姿もない。歩けば普通の廊下のように靴音が鳴り響く。
 この廊下を右手に曲がった所に46名のマスター候補生が眠る部屋がある。倉庫はその隣だ。いつもは素通りをするが、ふと凍結保存の部屋に足を踏み入れたのは召喚時のことを回想したからかもしれない。一段と冷え込む空気にサンソンは体を縮こまらせた。
 コフィンが部屋の中にずらりと配置されている。中には静かに眠る人々。自身のマスターであったかもしれぬ候補生たち。皆、少年が普段身につけているカルデア魔術礼装を着ていた。
 あるコフィンの近くに人影があった。少年だった。
 心臓が跳ね上がる。慌てて部屋を出て行こうとしたが、運悪く壁の棚に肩の馬を当ててしまい物音を出してしまう。
「……サンソン。倉庫は隣の方だよ」
 サンソンに気づいた少年が訝しげな顔をした。
「ええ」
 そうですね、と返答をしすぐさま部屋を後にすればよかったのだが、なぜだが足が動こうとしなかった。
 今の少年もカルデア礼装を着ていた。腹部のあたりが若干茶色く見える。そんなはずはないのに、目を拭っても違和感は続いていた。

 少年はサンソンから目を離し、再びコフィンに眠るマスター候補生を眺めた。誰も彼も、コフィンで眠る彼らの服は真っ白で、目に痛い。
 ずっとお互い黙っていた。ながい静寂の後、観念したかのように少年は口を開く。
「用があるようだし、俺の部屋にでも行こうか。ここはとても冷える」

 少年の部屋は普段通り殺風景だった。数少ない家具の一つである、ベッドへともに腰を下ろす。
「なにか、俺に言いたいことがあったの?」
「いえ、特には」
 なんだそれ、と少年は苦笑した。たしかに、用もないのになぜあの時すぐに立ち去らなかったのだろうか。疑問の糸を紐解くように、思いつきで質問をした。
「あそこへはよくいらっしゃるのですか」
 笑顔が静かに消えていく。唇がかすかにふるえている。
「……いつも、駄目になりそうな時はあそこへ来ているんだ。人類最後のマスターとして、俺が頑張らないと彼らが報われない」
 どちらかというと、自分に言い聞かせるような声だった。
「いまだに夢を見るんだ。あの時のこと。急いで管制室へ向かったらもうめちゃくちゃだった。マシュももう助からないほどの大怪我をしていた。何もできない俺は手を握りしめて、せめて笑っていようと思った。最後の時こそ、ひとまずの安寧を与えられますようにと」
 少年の手がシーツを撫でる。
「そして、彼女はデミ・サーヴァントとして成り代わり、一命を取り留めた。とても嬉しかった。一度は駄目だと諦めていたからさ。奇跡は本当にあるのだと、俺は感謝の言葉を叫びたい気持ちだったよ。でも、調査を進めるにつれ、喜ぶのはまだはやかったんだって思い知らされた」
 部屋がおそろしく冷たく感じる。
「ともに調査していたオルガマリー所長は死んでしまっていた。レフ・ライノールは裏切り者だった。帰還後、眠りから覚めても事情は変わらず、瓦礫や人はそのままだった。なにもかも、終わっていた」
 サンソンは、少年が祈るように己を見つめていたあの日のことを思い出す。ところどころ破けた魔術礼装、肌の切り傷、揺れていた瑠璃色の目。
「そんな時にあなたに出会った。今でも覚えている。重たそうな黒いロングコート。糊のきいた白いシャツ。精錬な白銀の髪色。薄氷色のまなざし」
 シーツを撫でる動きが止まった。
「あの時から俺はあなたに恋をしていた」
「ずっと、ですか」
「言うつもりはなかったけれどね。この前にワイバーンに襲われて死に直面した時、思ったんだ。心残りだけはしたくないなって。実は言うと、あのキスについては少しだけよこしまな気持ちもあった」
 嬉しかったよとささやいた少年はベッドから離れ、部屋を出ようとする。
「今日のメニューはポトフと三種類のパンだって。はやく行かないとなくなるぞ」
「マスター、あなたは」
 サンソンの問いかけを遮る。
「俺は人類最後のマスターだ。ゆえに、回り道をしている余裕はない。これは、刃についた雨露をふりはらうようなものだ。……自分勝手なことばかりしている自覚はある。ごめんなさい、いつも」
 立ち止まり、振り返った。
「目が覚めたら忘れているような、些細な夢だと思ってくれ」
 優しく微笑んだ少年の目は、もうあの時のように揺れることはなかった。目を奪われ、呆然としているうちに少年は去りドアが閉じられる。
 サンソンは自身の唇を撫でた。そして、頭をもたげていた欲に思慕も含有していたことをようやく自覚した。あの口づけは、想いが表層化されるきっかけに過ぎなかったのだ。
 ではいつからこの想いが芽生えたのか?
『ど、どうか、みんなを助けてください』
 かすかに頭に反響する。召喚時に聞いた、少年からのはじめての言葉だ。助けを求める声。そしてその時、少年はすがるようにサンソンの手を握った。
 サンソンがふりはらうことも忘れるほど、少年は必死で請うたのだ。それがただの偶然だったとしても。
(思えば、僕もあの時から……。)
 四六名のマスター候補生は眠り続ける。ともすれば、サンソンと少年も未だに瓦礫の夢の中にいるのかもしれない。しかし、それが覚めたとしても、夢の続きをはじめたい。すべてが終わってから、新しく刻まれるだろう時の中で、人類最後のマスターではなくなった少年に伝えたいことがある。
 廊下に出る。廊下は相変わらず、平常に靴音を鳴らす。倉庫へ向かい、取り忘れた備品を取り、補充をし、そして食堂へ戻った。並ぶ机に少年の姿があった。その首にはまだ何もない。
 できれば、捧げることがないよう、刃である己が主に切っ先を向けることがないよう、そして失われた二〇十七年以降の世界を取り戻すことを祈り、サンソンは受け取ったパンを口に入れた。

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