バターはくらやみのなかでよくとける
今日は帰らないと聞いていた。だから普段の摂取量よりも気持ちひとつ分多く——グラスで換算すればプラス三杯——楽しんだ。長期に渡る捜査がひと段落し、貰い物のブランデーに口をつける日がようやく訪れたのだ。誰もいない空間で時折氷が溶けて音を立てる。同じく捜査に参画していたレトロとクロックは次の捜査に備えてメンテナンスへ行っており、日常であった賑わいからは遠く離れ、一時とはいえ寂しさを覚えてしまうのは事実だった。
グラスの中の琥珀色が数ミリとなり、継ぎ足そうとボトルを傾けたとき、解錠の音がした。メンテナンスは一夜かかると聞いていたのだが予定より早く終了したのだろうか。酩酊で重くなった瞼をそのまま閉じていると、次に足音が聞こえた。足音? 瞬時に酔いが覚めて明晰となった視界で扉の方向を見ると、呆れたように立っている恋人の姿があった。途端に弛緩し、安堵でふたたび酔いが回る。腕を伸ばせば、渋々といった様子で近寄るその姿はやはり可愛い。
特別、アルコールに弱いわけでも酒癖が悪いわけでもない。ただ、酔う。普段よりもやや陽気寄りの方向で。要は見栄だ。歳上であるとの事実が、酔いによる浮ついた姿を見せたくないという気持ちを作り出す。でなければ、こうしてみっともなく甘えてしまうから。
「ふふ、可愛いな」
「可愛くはないだろう」
口ぶりは素っ気なく、しかし視線は不自然に背ける仕草がなんともらしかった。その、褒められたことへの照れと子供扱いされたことへの拗ねが入り混じった表情が愛おしい。
一ヶ月の間で、さらに精悍さが増したように思える。若いだけあって日々の成長が著しいのだろう。隆起した喉仏や鍛えられた筋肉質の体型は、一般的には『格好良い』という表現が想定されるのだろうが、その上に『可愛い』の気持ちがコーティングしているのは、なんらおかしいことではなかった。
両手で顔を包む。赤色の虹彩は心配するようにこちらを見つめている。俺は大丈夫だと言ってやりたくて、しかし酔っ払っているものだから代わりに鼻先へ唇をあてた。拙いリップ音で余計に酔いが回った気になり、今度は頬、目の下、額、唇の端、と文字通り雨を降らす。骨や脂肪の厚みで、部位ごとに感触が異なるのが面白かった。こちらと違って、酒を飲んでいないというのに赤らんでいる頬や耳を見て満ち足りた気持ちになる。こういうのを、迂闊に見せるもんだから甘えてしまう。贔屓目に見ても基本的には無愛想であるし誤解を与えやすい言動を振る舞うものの、何だかんだいってこの男は押しに弱い。守ってあげたいなんておこがましい気持ちを抱きながら、自分はその優しさにつけ込んでこの歳下の男に甘えているのだから手に負えない。限度があるな、とようやく少しずつ醒めつつある頭は正常に働き出し、両頬から手を離した。一度、顔でも洗おう。とびきり冷たい水がいい。上体を預けていたソファから立ち上がろうとすると、そっと肩をやさしく押され元に戻される。
「どうかしたのか?」
平時の態度をなぞるように言葉をかける。先ほどの、見てられない醜態の場面はもう終わったのだと言外に伝える。すると、いかにも不満といった表情——眉間に縦一本の皺と定規で引いたかのような真っ直ぐに結ばれた唇——を向けられる。無愛想ではあるが、その機微は実に色鮮やかだ。
「……満足していないくせに」
唸るような、震えるような声に、何がと口を開くもそっと体を離すと部屋の電源を消した。途端に暗くなる。カーテンの隙間から、街灯りがうっすらと青白く部屋に滲む。上着を脱ぐ衣擦れの音。そういうつもりなのかな、と目を凝らすも急な明暗の変化に追いつかず、視界は黒く茫漠としている。そこから、ぼんやりとした像が近づき、抱きしめられた。逞しい身体。ちょうど胸の辺りに顔があたる。伝わる不規則でテンポの早い鼓動とは打って変わって、背中は規則的なリズムで優しくたたかれる。これはまるで——。
「小さな子ども扱いだ」
「そうだな」
ぐっと抱きしめる力が強くなる。服越しに体温が伝わり、バターのようにゆっくりと溶けていく。すんと鼻を慣らし、ムスクに似たこの男のにおいを吸い込む。
「暗くて何も見えないから、気兼ねしなくていい」
優しくていじらしい。髪の隙間に差し込まれる指を掬い取り、絡め合う。得物を握り続けかたくなった皮膚を撫で、ごつごつとした指の関節をなぞる。
「何も見えないことをいいことに、みっともないことをするかも」
「バランスが取れていいんじゃないのか」
「買い被りすぎだ」
自らの唇に手を引き寄せ、手先に伝わる感触で見当をつけたのちに人差し指の第一関節までを口に含む。その関節の裏を舌先でなぞれば、声にならない声が暗闇の中で溶けた。
******
今日は帰らないつもりだった。サルーパの宿で一夜を明かそうと扉を開けるその手前で、端末が震えた。
時代や時空を越えてやりとりが出来るこの端末はアルド経由で支給されたものである。KMS社で行われている時空時層研究をベースに、アルドの仲間である科学者や研究員が独自に開発をしたと聞くが、物好きな人間もいたものだと常々思う。とはいいつつも、意外と重宝しているのは事実だった。まだ学生だった頃は、補習連絡の通知が届くや否やスクールへ急いで向かったものだった。おかげで留年することもなく無事卒業し、兄としての面目は保たれたように思う(であれば最初から真面目に授業を受けるべきだとサキから苦言は呈されたが)。
発信元はレトロだった。封を開けると、自動的にメッセージが読み上げられる。
『久しぶり! もしも、もしもなんだけど帰れそうで、ジェイドさえよければ帰ってきてほしいな〜!』
彼らの相棒で、自分の恋人である男の姿が脳裏に浮かぶ。危機というには文体は軽く、しかし何もないというには切実な印象。
最後に会ったのは一ヶ月前。あの後、大規模な捜査に動員され、職場近くの宿で寝泊まりしていたはず。疲労は蓄積しているのは間違いない。が、痩身の割に体力はあるので動けないほどではないだろう。となると、捜査に一旦区切りが付き、弛緩し、酒を飲んだ。飲酒量は普段よりもやや多め——少なくとも自分が同席している時よりは——。息を吐き、端末に打ち込んだ文字を送信し、来た道を戻る。
角が擦り減ったカードキーを取り出す。一旦のクールタイムとして、捜査に参画したレトロとクロックはメンテナンスへ行った。踏み入れたリビングにあるソファに、セティーが深くもたれかかっていた。
こちらの姿を認めるや否や、いつもより穏やかに表情を崩したものだからやはり酒を飲んだのだとわかる。ローテーブルに置かれた、二割程度となったブランデーとグラスの中で溶けた氷が何よりの証拠だ。
実直で淡々として見えるこの年上の男は、律することを己に課している。定規を背骨に入れたのかと言いたくなるほど真っ直ぐな背筋に、均一に刈り上げられた清潔感のある後頭部。言い逃れを許すことのないその強く光る青の眼差しは、しかし今はやわらかく溶けている。伸ばされた手に導かれるように顔を近づければ、両手で頬をそっと挟まれる。
「ふふ、可愛いな」
「可愛くはないだろう」
少なくとも、この男のほうが可愛い。惚れた欲目と言われたらそれまでだが、いつになく甘えるその姿は愛おしい。可愛げのない返しにも呆れることなく、鼻先に唇を押し当てられる。
付き合ってわかったことは、この男はキスが好きだということだ。こうして日常用の顔が溶けるまで飲んだ時は特に。こちらの輪郭を確かめるように、隅々まで口づけを落とされる。少しかさついているのは、やはり多忙と疲労の表れだろう。放っておけばそのうち割れて生まれた隙間から肉を突っ切って血が出る。他人のことは過保護なくらい気にかける癖に己のことはなおざりになりがちなところに胸がちりつく。いばらの棘を無理やり呑み込み、自分が出来ることを探す。傷になる前に。たとえば、保湿性のあるリップバームを渡すとか。今度の休日にショッピングモールで探してみようと計画を立てる。そして今日は、この男のしたいようにさせようと目を閉じる。
しかし、頬から手を離され雨も止む。熱は失せ、いつものあの平坦な表情に戻る。まるでさきほどの様子は、今の自分とは関係ないと言いたげな——なぜ? 奥底にある感情を読み取ろうと目を凝らすと、微かに気まずさが読み取れた。おおかた、恥ずかしくなったのだろう。酔っ払って、年下である自分に甘えたことが? 途端に面白くなくなる。たった数歳程度の違いにしてはあまりにも律しすぎる。そして、他人行儀だ。無意識に眉間に皺を寄せてしまう。ソファから離れようとする男の肩を押し戻し、寝かせた。
「……満足していないくせに」
みっともなく、追い縋る声色だ。ここぞという時に決まらない。開いた口が何かを言う前に、部屋の電気を消す。途端に暗くなり、互いの姿が闇に塗り潰される。これから始めるであろうことを想起し、じわじわと上がる体温を冷ますため上着を脱ぐ。ぎこちない衣擦れの音に心臓が跳ねる。なるべく丁寧に折り畳んだのは、緊張を紛らわすため。いつだって慣れない。気恥ずかしい。だが、嫌なわけではない。
甘えてほしい。素直にそう言えたら簡単な話なんだろう。甘えているのはこっちだ。拙い表現から本心を見抜き受け止めてくれる。しかしそれでは駄目だ。そっと、ソファへ戻る。うっすらと街灯りに照らされたその身体を抱きしめた。息を呑む声が聞こえる。ちょうど心臓の位置に頭があるから、きっと高鳴る鼓動も聞こえているだろう。だが、今は何も見えない。赤くなったこのみっともない顔を見られずに済む。
そしてそれはこの男も同じだ。この暗闇の中ぐらいは、気持ちを緩めたらいい。以前よりも少し薄くなった身体に腕を回し、背中をとんとんと叩く。幼子を寝かしつけるようなやさしさで。
「小さな子ども扱いだ」
少し不服そうな声色だった。珍しい。普段とは逆だ。まるで、どう反応していいのかわからないといった居心地の悪さ——というよりも気まずさと称すのが適している——も声に入り混じっていることに気がついた。器用に見えて不器用でもあるこの男は、その生真面目さを愛おしむ相手から甘やかされることは過去に何度か経験していたのだろうが、自発的な甘え方を知らない。不得手でどう振る舞うべきかいまだにわからずにいる。
「そうだな」
拙くてもいい。見苦しくてもいい。ただ、思うがままに振る舞えばいい。そのために暗闇がある。言葉にする代わりに、深く抱き締めた。はっと息を呑む音が聞こえる。
「暗くて何も見えないから、気兼ねしなくていい」
お前がいつも俺にしてくれるように、お前もその身を委ねたらいい。言葉の代わりに繊細な髪を撫でていると、その指を取られ撫で回される。ぽつりとセティーが呟いた。
「何も見えないことをいいことに、みっともないことをするかも」
「バランスが取れていいんじゃないのか」
「買い被りすぎだ」
人差し指に濡れた感触が伝わる。続いて、柔らかいものに指を舐められ、咥えられたことがわかる。薄い関節の裏を舌先が丁寧になぞり、思わず息を呑む。
こういうことをいとも容易くやってのける。自分はというと、いつもみっともなく振り回されてばかりだ。はやく、どうってことのないように振る舞えるように慣れてしまいたい。そうして、お前があるがままであれるよう、安心させたい。
一方で、じりじりと内側から頬を焼く、緊張に似たこの熱情をまだ手放したくはなかった。
思考が熱でとけ、境目である輪郭は無くなる。攪拌された恋人たちはその夜を共にした。