インプレス・アンドレス
池に巨大な水柱が出現したと同時に響く、何かが水面に強く打ちつけられる音。続けて、種類の異なる機械音声の悲鳴が後を追い、付近にいた住民たちが池の周囲を取り囲む。
誰か落ちたのかと悟ったジェイドは、群衆を掻き分けてその中心に向かう。池底は深くはないはずだが、足を挫いたり意識を失っている可能性もあった。
水面から、腕が一つ生えていた。
鼓動が速くなる。救助へ向かうべく、着ていたジャケットを投げ捨てる。しかし飛び込むすんでのところで、川から人間が引き揚げられた。両腕にはそれぞれ白色と黒色の球体ポッドに持ち上げられている。呆然と眺めていると、落ちた人間の目を視線があった。
白い肌は血色を失い青褪めて、濡れそぼつ金髪からは雫が滴る。そして青色の眼。
「セティー、お前だったのか」
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「レトロ、クロック。言われたとおり替えの制服持ってきたわよ。……あら、ジェイド。奇遇ね」
荷物を持って現れたのは、セティーと同じくCOAに属するレンリだった。ジェイドの姿に目を丸くする捜査官に、偶然居合わせただけだと断りを入れてから問いかける。
「一体あいつに何があったんだ? 事情を聞こうにも、本人はともかく、レトロやクロックにもはぐらかされるばかりなんだが」
バスタオルに全身包まれ、遠くに座るセティーに視線を向ける。
あの後、ラウラ・ドームの池から救助されたセティーは手当のため他の捜査員に取り囲まれていた。目に見えて呆然とした様子の当人には声をかけづらく、レトロやクロックに尋ねたものの珍しく歯切れの悪い返答で誤魔化されたのだった。
「たいしたことじゃないんだけど、セティーの名誉に関わるというか〜……」
「ポンコツに同じくです。申し訳ありませんが、ご容赦願います」
レンリから荷物を受け取ったレトロとクロックは一礼(球体のボディを下方向に九十度に傾ける動作)をすると、セティーの元へ去っていく。その様子を見て、レンリは腕組みをしながらうーんと小首を傾げた。
「二人の言う通り、大袈裟なことじゃないのよ。現場確認で池辺を歩いていたらどうも足を踏み外したみたいでね。その拍子で池に落ちちゃったと聞いたわ。なんで隠しているのかわからないけれど」
「犯人と揉めたとかではないんだな。であれば問題ないが」
ようやく事のあらましを把握し、ジェイドは安堵する。たしかに重大な出来事が発生したわけではないようだった。では、なぜ二人はあれほど言い淀んでいたのだろうか、と同時に疑問を抱く。
「ジェイドは何か用事でも?」
「探し物の途中だったが、今日はもういい。それどころじゃなくなった」
「こんなことが起きたらね。私もめずらしく今日は仕事が落ち着いていたから、早上がりしてラヴィアン・ローズへ行く予定だったんだけど、急に要請がきてね。捜査員が一人池に落ちたから状況確認がてら着替えを持って来てほしいって。連絡を聞いた時にはさすがに耳を疑ったわ」
レトロとクロックに付き添われながら宿へ連れて行かれるセティーの姿を見て、レンリはため息を吐く。
「災難だな」
「まあ、普段はラウラ・ドームに来ることはあまり無いからいい機会だと思うことにするわ。あいつの用事が終わるまで一緒にお茶でもしましょうか。奢るわ」
「自分の分は自分で払える」
「いいのよ。あなたは年下なんだから気にしないで」
そう言うとレンリはつかつかと歩き始めた。外れにある畑には麦が豊かに成り、その黄金色の穂よりも薄く透き通るその髪は二房に分けられ、歩く度にテンポ良く快活に揺れる。自分よりもいくぶん小柄であるのに頼り甲斐を感じさせるその後ろ姿を、ジェイドは遅れて後を追う。
ラウラ・ドームの中心部にある宿に併設されたカフェスペースで、二人は時間を潰していた。
ジェイドがホットコーヒーを頼んだ一方で、レンリはキャラメルマキアートとパンケーキを迷いなく注文した。食べ物とドリンクがどちらも甘いと飽きそうだが、とジェイドが言えばキャラメルマキアートには苦味もあるのよ、ともっともらしい表情で答えた。
「それはそうと、先ほどからアラームが鳴り続けているが。大丈夫なのか?」
レンリが飲食をする度に『摂取カロリーオーバーです。糖質の摂りすぎは控えましょう』と携帯端末から警告が鳴っていた。
「……気にしないでちょうだい。今日は特別手当ということで」
端末の電源を慌てて切り、レンリは特別手当と称したパンケーキを口に運ぶ。たちまちとろけた笑みが浮かび、甘味が本当に好きなのだなとジェイドは感心する。
「幸せそうだ」
「そんな顔していた? こ、このパンケーキがとても美味しいのよ。ラウリー麦の芳醇な香りが口の中でふわっと広がって……」
取り繕うように慌ててパンケーキの味を語るレンリにジェイドは頷く。
「素直でいいと思う。俺はよく分かりづらいと言われるからな」
「うーん。私はむしろポーカーフェイスになりたいんだけどね。すぐ顔に出るから煽られることも多くて」
レンリは頬を両手で覆い、ため息を吐く。
「あいつも一見クールだしね」
「一見?」
「ええ。池の件もそうだけど、日常でもなかなかよ。もちろん失敗が許されない場面はちゃんとしているけど、なんというか意外と気が抜けているわね」
向き合って座るレンリに影が差したかと思うと、背後から人影がぬっと現れる。
「風評被害だぞ」
「きゃっ!? 本当にびっくりした……。音もなく近づかないでくれる?」
替えの制服に身を包み、頭にタオルを掛けたセティーが立っていた。側にはレトロとクロックもいた。
「悪かったな。事実無根の情報が流されているのを知って気が回らなかった」
「無根も何も、事実でしょ。ね、ジェイド」
「たしかに不注意で池に落下している」
「二人ともやめてくれ」
どことなく拗ねた声色にめずらしいなと顔を見れば、濡れ落ちた髪の隙間から覗くかたちのよい額には微かに皺が寄っていた。
「レンリとジェイドの言う通りです。せめて落下の危険がある場所では注意してください」
「も〜ハラハラだったよ〜。ジェイドに誤魔化すのも大変だったし」
「レトロ、それはどういうことだ?」とジェイドが問いただすと、しまったと言わんばかりにレトロはアームを旋回し始める。
「何でもないよっ。しっかりして余裕のある人間に見られたいから、ジェイドの前では頑張っているってことは」
「ポンコツ。それは少し違います。セティーは冷静沈着ですが、所々気が抜けてルーズな面もあるというだけで」
「レトロ、クロック。それはわざとでやっているのか……?」
「い、いいえ。これは言葉の綾というものです」
聞いたことのないほど低く発せられたセティーの声に、今度はクロックも動揺する。
「要は恋人の前では格好つけていたということか」
いつの間にかパンケーキを食べ終えたレンリが納得した様子で頷く。
「あなたも可愛げがあるのね」
「怒るぞ」
セティーはレンリの隣に座り、腕を組む。斜向かいのジェイドには目線をくれる様子もない。気まずいのだろう。呆れの気持ちを抱きつつ、レンリの言うとおり可愛げとはこういうものかと感嘆も入り混じり、吐き出したため息に言葉を続ける。
「まあお前が抜けているというか、そういう面があることは知っているが」
「なんだと」
そこでようやく目が合った。これはわかりやすく動揺の色を宿していたので、自覚が無かったのかとジェイドは内心驚く。
「ヨレヨレのスウェットのまま近所に買い出しへ行ったり、髪の毛を乾かさずに寝たりしているだろ」
「それって抜けているというよりも、ただのルーズなんじゃないの?」
「まさか気がついているとは思いもしなかった……」
「だから俺に今日のことを見られたとしても、そこまで落ち込むことではない」
「う……」
「よかったねセティー。あやうくバレそうになったとき証拠隠滅のために必死にフォローしたことも、今となってはデータバンクの中でひときわキラめく思い出だよ」
「私たちの苦労が報われたのか無駄だったのかわかりませんが、終わりよければ全てよし、ですよ」
「お前たち、今度は意趣返しか?」
恋人と、その周りを旋回する白と黒の相棒のやりとりを眺めつつ、コーヒーに口をつける。まだ温かく、砂糖も入れていないはずなのにどこか甘く感じた。