ふたりの風景

 スクールを卒業した妹のサキが一人暮らしをすることになり、ジェイドは荷物の運搬を買って出た。
 業者の人に任せるから大丈夫だよ、と当初は断られたが、業者を騙る犯罪者がいないとは限らないのだとジェイドが半ば押し切るように約束を取りつけたのは、思い出すだけでも忌々しい、あの輝ける民の末裔による襲撃事件のようなことが再び起きてはたまらないからだった。
 
「兄さんがいてくれて助かったよ。ありがとう」
 新居の近くにあるファミリーレストランで、二人は早めの昼食を取る。荷解き作業はまだ残っていたが、動き回るジェイドの腹が鳴ったところでサキが休憩にしようと外へ引き連れたのだった。
 兄妹とはいえ無償で頼むのは気が引けると当初は躊躇していたサキだったが、引っ越し手伝いの礼として昼食を奢ることで話はまとまった。
 気を遣わなくていいとジェイドは何度も断ったが、頑固なところは兄譲りなのかサキも一歩も引かなかったため、申し出を受けることにした。兄妹喧嘩や押し問答の末、折れることになるのはいつも兄であるジェイドだった。 
 客足はまばらで、通路を配膳ロボットが流れるように走る。窓際の席に座るジェイドたちの席へロボットが立ち止まり、二つのランチセットが机に置かれた。
「荷解き以外にすることは他にあるか?」
「大丈夫だよ。大抵のことは自分で出来るもの」
 サキが頼んだランチプレートのグラタンスープはブイヨンの香りがこうばしく、スプーンで表面を掬えばチーズが後を追うように伸びる。
「不審者が出たらすぐに教えてくれ」
「兄さんってば心配しすぎだよ」
 可笑しそうに笑うサキの動きに合わせ、黒髪のボブカットが軽快に揺れる。こちらは本気で心配しているんだが、とジェイドは言葉を重ねようとしたが、口うるさいのは好ましくないかと思い直し、代わりにハンバーグを口に入れる。
「でも、ありがとう。一人暮らしだからそう言ってもらえると安心する」
「見回りがてら、毎朝マンション周りをランニングしてもいいが」
「逆に兄さんが不審者扱いされちゃうよ」
 扇形に分けられた、付け合わせのキッシュが丁寧な手つきによってさらに横へ二分割される。なるべく正三角形に近寄せたその断片をフォークで差し、いよいよ口に運ばれるところで、目が合った。
「兄さんはどう? セティーさんと喧嘩とかはしていないの?」
 突然妹の口から飛び出した恋人の名前に、ジェイドはすぐには反応が出来なかった。鉄板に残るハンバーグの油をナポリタンに馴染ませるように絡みつけ、しかし上手くはまとまらず、フォークを四回ほど回して失敗したところで、ようやく返事をする。
「たまにくだらんことで諍いはする。殴り合いのような派手な喧嘩はしないが」
「二人とも怒ったら口を聞かないイメージだなあ。兄さんもすぐ黙るから」
 ふふ、とサキの顔が綻ぶ。どこか得意げなその表情に、居心地の悪さを感じる。
「口が達者ではないだけだ」
「それを黙るというんだよ。兄さんは一人で抱え込んじゃうから」
 先にあった、旅団によるグレイブ・ヤードでの襲撃事件を暗に指していた。そして実の父親に施された実験のことも。真相を告げることなく、すべてが終わったのだと幕引きを図ったが、サキが勘づいていることはジェイドも感じ取っていた。
「それは、すまない」
「いつか、兄さんの口から教えてくれると嬉しいな」
「……その時が来たらな」
 何とも無責任な発言なのだろう、と思いつつも今言えることはこれしかないとジェイドは目を瞑る。サキも意図を感じとったようで、飲み物取ってくるねとドリンクバーへ向かった。
 窓から漂う冷気に、少し体がぞくりとする。春の芽吹きはまだ寒い。窓の向こうを眺めれば、この建物を囲うように設置された花壇が目に入る。淡いピンク色のベニフィラが規則正しく並んで咲いていた。スクールのH棟前に植えられていたものと同じだな、と懐かしさを覚えつつ、学園での出来事もサキとの確執も、過去の思い出と化していることに実感が湧いた。自分の体に施された魔導書の力のことも、狂気に囚われた父親をこの手で殺したことも、旧友を自分の愚かさで失ってしまったことも。過ぎ去ってほしくないと思うのに、非情にも時は歩みを止めず、しかし現在が過去になることは、必ずしも風化することではないことも。ジェイドは知っていた。
 ふと、風がした。
 右手と左手その両方にグラスを持ったサキが戻ってくる。話の続きなんだけど、とサキがコーラが入ったグラスを差し出す。
「仲直りは? セティーさんから?」 
「まあ、そうなるな」
 とはいえ、そのきっかけ作りはレトロとクロックだと思い返す。
「じゃあ兄さんはセティーさんのことを信頼しているんだね」
「どういう意味だ?」
「たとえば私と兄さんが喧嘩したら、兄さんが先に折れてくれるでしょう? でもセティーさんとの場合は逆。自分の意思をぶつけることは相手への信頼関係あってこその話だから」
「?」
 理解できていない様子のジェイドに、サキは声の調子を整えるように咳き込む。
「こういうことを言うのは恥ずかしいけど、兄さんと喧嘩するとき、私は兄さんに対してちょっと甘えてるなって。何を言っても兄さんから受け止めてくれるだろうなっていう気持ちがあるから」
 自分の言葉に気恥ずかしくなったのか、白い頬に朱が差し込む。
 まだ口にしていないフライドポテトを差し出せば、それはさすがにお腹いっぱいだよ、と薄赤色の花のようにサキはほがらかに笑った。

 ******
 
「おはよう。よく眠れたか?」
 目を開ければ、そこにはサキではなくセティーの姿があった。昼食を終え、残りの作業を終えたジェイドが休憩がてらソファでまどろんでいると、いつの間にか眠りに落ちていたようで、時刻を見ればもう夕方に差し掛かっていた。
「……なんでここにお前がいる」
「私がセティーさんを呼んだんだ」
 キッチンから出てきたサキから、コーヒーが入ったマグカップを手渡される。ほどよい苦味が眠気をゆっくりと追い払い、思考は冴え戻りつつあった。ジェイドはあらためてセティーに向き直る。
「そもそもサキの連絡先をなぜ知っている」
「兄は妹を心配するものだが、同時に妹も兄を心配しているということだ」
 セティーの言葉にサキが補足する。
「兄さんは自分のこと話さないから、近況のやりとりも兼ねて連絡先を交換したの」
「……滅多なことをサキに言っていないだろうな」
「アルコールに弱いから酒の席では注視する必要があるとは伝えた」
「余計なことを言うな。別に弱くない」
「一度酔い潰れて路上で寝ていたというのに?」 
 抗弁するジェイドに、セティーは忘れたのかと言わんばかりにため息を吐いた。
「その件は初耳なんですが……。兄さん、本当なの?」
「……いずれ話そうとは思っていた」
「兄さん。見え見えな嘘はやめて」
 凍てついた視線から逃れるように、ジェイドは中身を飲み干したマグカップを片手に立ち上がった。キッチンへ退いたジェイドの姿を横目に、セティーは会話を続ける。
「荷解きは順調かい?」
「はい。兄に手伝ってもらったおかげで後は自分一人でも大丈夫です」
 それは何よりだ、とセティーがショッピングバッグをサキに渡す。
「これは新居祝い。サキくんの好みに合うかはわからないが」
「えっ、そんなお気遣いいただかなくても」
「俺たちが一緒に住む時にも貰ったから、そのお返しだ。受け取ってもらえると嬉しい」
「ありがとうございます。本当に何から何まで」 
「こちらこそ、サキくんにはバレンタインの件も世話になっているからね」
「何の話だ?」
 マグカップを洗い終えたジェイドが二人の前に戻るも、セティーとサキは顔を見合わせて何でもないよと笑った。その目配せは共犯者めいており、作戦が成功した子どものような笑顔でもあった。
 
 ******

「俺はお前に甘えているのかもしれん」
 唐突に口から出た言葉に、しかし動揺するでもなく、本当にそうなのだとジェイドは確信した。隣に並び歩く男がその続きを促すわけでもなく、かといって無視をするのでもなく、代わりにこちらへ目線を向けたのを、見返すでもなく感じ取る。
 日は暮れ、長居は良くないとサキに別れを告げて二人は帰路に着いていた。春らしいまどろみは日が落ちてもなお大気に滞留しており、しかしまだ肌寒い。夜の暗色を吸った金髪から垣間見える耳は、おそらく赤いのだろう。冬の余韻を想像し、息を吐く。
「というわけで、次にする喧嘩はお前に勝ちを譲る」
「何の宣誓だよそれは」
「お前に頼りっぱなしでは癪だということだ」
 以前にも似た話をしていたなと笑うセティーに、悪いかと口をつく。思いのほか拗ねた声色に、小さく笑ってしまう。そして、密かではあるが自分はこうして笑えるようにもなったのか、と時のうつろいをジェイドは実感した。
「どうかしたか?」
「俺たちも長いな、と思った」
「そうだな」
 色々あったな。そう呟いた恋人に、ジェイドは頷く。色々という言葉では持て余すほど、たくさんの出来事がこの身を過ぎていった。まばたきのように一瞬で、果てしない。隣り合う手に触れる。想像した通りの冷たさに、ふたたび笑う。時は止まらない。変化しないものはない。が、こうして分かち合うことは出来るのだと、ジェイドはその手を強く握った。

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