あたらしく生まれ変わる

 甘ったるい匂いが鼻を衝くが次第に慣れる。暗面に萌芽するたくらみを摘むべく、淫猥めく駆け引きを楽しむ彼らの一員に擬態し、耳に触る会話を呑み込みながら、証拠としての記録を収めるこのおこないは、汚泥に塗れ一体化することだといえなくもないが、しかし身に浸かってはじめて見える景色がある。会場を覆う、ひどく甘く生温い空気に思わず催す嘔吐感を気のせいだとやり過ごし、セティーはグラスの中身を呷った。伊達眼鏡に搭載されたカメラの位置を意識しながら純粋なる招待客らと談笑を続ける。合成人間による輸送阻害の損害規模。買い取った廃棄予定プレートでの非公開実験計画。非合法の電子ドラッグを改竄し効果はそのままに合法化させる動き。
 頃合いか、と輪を抜けて手洗い場へ向かう。
 鏡には普段とは異なる己の姿が映る。捜査に携わるCOA捜査員の容貌は周知されており、潜入捜査にあたっては光学迷彩はもちろんのこと、眼鏡や髪色なども些細な差異を施していた。もっともこの髪色は特殊なライトを照射する簡易式のもので、あと数時間経過すれば元の金色に戻る。まるでお伽話の灰かぶり姫のようだと黒髪を整える。灰かぶり。燃え殻。焦熱。煤の黒、灰の白。連想に逃避するのはよくない傾向だ。息を吐き、眼鏡を外して目頭を強く押さえる。渦巻く喧騒は未だ会場内に滞留していたが、もはや用も無く、そのまま後にした。
 
 真っ直ぐには帰らず、乗り込んだシップで遠回りのルートを辿る。アルコールを摂取していなければ無軌道にバイクを走らせたかったが、二つ名を冠されるほどには評判は行き渡り、潜入捜査後にバイクで帰るのはどのみち得策ではなかった。迂回に時間をかけ変装を解き、戻った職場で待機していたレトロとクロックと共に資料をまとめるうちに時間が経つ。腕を伸ばし肩を回せば背中の筋肉が強張っていたことがわかる。
 窓外の空はうっすらと夜の気配が未だ滞留している。休憩してくる、と机の引き出しから煙草一箱とライターを掴み、そのまま屋外の喫煙所へ移る。クロックは一瞬何かを言い淀むものの、続きはポンコツと共に進めていきますとそのまま作業に入った。
 
 不在の空間には冷気ばかりが佇んでいた。
 咥えた煙草に火を灯し、息を吸えばたちまち燻りの薫りが肺に行き渡り、いくばくかの寿命の縮まりを引き換えに得たささやかな安らぎが胸に広がる。習慣的に喫煙することはないが、捜査に行き詰まった時や気分転換の際には例外だった。捜査の根回しや情報収集もいわゆる正攻法よりは、くだけた雰囲気になりやすい喫煙所のほうが効果がある。スラムにいた時だってそうだった。世間知らずの落ちぶれた元金持ちのガキだとつけ込まれてはおしまいで、彼らの儀礼に従い仲間であることを証明しなければ生きてはいけない。その内容がどれほどくだらなくともだ。もっとも、義兄と行動を共にするようになってからは控えるようになったし、そもそも彼だって好い顔はしなかった。好きでやるならともかく、迎合の為に肺を痛めつけるのは止めろとかだったか。昔から面倒見の良い人だとセティーは紫煙を吐く。
 オールドタイプの紙巻煙草はその値段においても嗜好品の中の嗜好品と言えたが、この時間は息抜きであると意識させるにはちょうど良かった。ゆっくりと吸った煙は肺に充満し、鋭く吐く息は白く濁りながら成りかけの朝を汚す。スタンド式の灰皿に押し潰された煙草は、肌が粟立つ音を立てその火を消す。残り業務を考えれば休憩を終わりにすべきだったが、しかしどうしてだか戻り難く、結局もう一本箱から取り出した。
 透明な壁に覆われた喫煙所は見世物小屋のようだ。何かの罰か、目隠しさえ施されていないゆえ、道ゆく通行人と視線が合うことも時たまある。大抵は無関心だが不快をあらわした表情を向けられることもあり、人気の少ないこの時間帯は居心地が良かった。清廉であろうとも叶わぬこの身において、そういうものだと割り切る段階はとうの昔に越していたが、しかしあらためて嫌悪が滲む表情を向けられれば、もちろん喫煙に対してのみと理解はしているはずであるのに、正義へ至る為にその逆を突き進んでいることを否が応でも自覚させられる。
 緩慢に煙を吸っては吐く動作を繰り返すうちに、太陽は次第に登り始め、薄闇のベールで覆われていた道もその姿があらわになる。ビルは規則正しく林立し、プレートも規定位置に浮遊。何の変わりもない日常。それが故に見過ごされやすく、見失えばたちまち地の底へと沈んでしまう平穏。
 
 しばらく目の前の道路を眺めていると、そこに人影がひとつ現れた。
 長身の若い男。眠いのか欠伸をしつつゆっくりと歩いている。癖毛ゆえに柔らかく跳ねた白髪の青年はどうにも眠そうだ。そもそも早朝の時間帯にどこへ向かうのだろう、と訝しんでいると、青年は振り向きセティーの姿を認める。目蓋が半分ほど覆われていた目は大きく見開いた。そのまま彼は近づき、とうとう喫煙所に入ってきた。まだ吸っていない煙草を箱に戻そうとするものの、制される。
「……久しぶりだな、ジェイド」
 自ずと発した言葉に、長らく目の前の恋人に会っていなかったことにセティーは気がつく。最近は連絡も滞り、愛想を尽かされても仕方あるまいと身構えたが、ジェイドは普段と変わりのない表情、無愛想な顔つきで喫煙所を見渡す。
「職場付近だからもしかするとと思ったが、まさか会えるとは。まだ勤務中なのか」
「今は休憩」
 こうしてたまに吸いに来る、と続けなかったのは健康の心配をされる億劫さもあり、しかし胸ポケットに入れたライターに視線が向けられたので無駄な足掻きと言えた。
「喫煙者だとは知らなかった」
 ジェイドの鼻がひくつく。煙はその姿を消したが、しかし痕跡は未だに滞留している。言い逃れは難しいか、と居心地の悪さが去来し、浅く息を吐く。
「普段は吸わない。必要な時だけだ」
「今がそうなのか?」
「見ての通り」と言えば、何とも言えない表情が返ってくる。一見、無表情で感情が読み取りづらい男ではあるが、共にいる時間を重ねれば自ずと理解できる。表情に灯るその善良に目映さを感じ、そして気詰まりを抱く。
「それ、吸わないのか」
 こちらを窺う戸惑いが滲んだ目が、口に運ぶでもなく指の股に挟まれたままの煙草に向けられる。元より再開する気はなく今度こそ箱の中に仕舞えば、煙草が箱の内底に当たる音が鼓膜にひどく響く。
「受動喫煙は毒だ」
「まるで主流煙は問題ないといったような物言いだが」
「そこは自己責任だろ」
 突き放すような質感の声色に、ジェイドが息を呑む。しまった、と焦るも、後悔はいつも出来事の背後から鈍重な足取りでやってくるものだった。
 喜ぶべき邂逅だというのに、湧き立つ気持ちよりも物憂さが勝っているのは、あの煌びやかな汚泥と今の姿が地続きであるからだった。淫靡な薫りの裏に腐臭が隠され、しかし確実にこの身に染み込んでいる。この姿を見られてしまえば最後、積み上げてきた信頼とか愛情というものが途端に崩れ落ちていく。せめてその場凌ぎであろうとも、見せたい面だけを取り繕う時間があれば、本質自体をすべて漂白することは叶わずとも、延命は可能だった。
「……そもそも、夜遊びとは感心しないな。一体何をしていたんだ?」
 しかし抗わねばならない。崩れ落ちる外装を掻き集め、剥がれた箇所へ押し込める。そうでもしないと、集積してきた今までを諦めたことになる。
 しばらくの沈黙の後、いつもの通りの抑揚が返ってきた。
「事件性が無い時の職務質問はEGPDの分野かと思っていたが。残念なことにただの散歩だ」
 ジェイドは壁に寄りかかり、先ほど歩いていた道路に視線を向ける。
「恋人が早朝に外を歩いていたら誰しも気にはなるさ。まあ、たしかにバイクでも走らせたら気持ちが良いだろうな」
「最近は乗っていないのか?」
「エルジオンの上空を走る夢を見るくらいには」  
 当たり障りのない会話を紡ぐうちに、上空へ達した朝日が喫煙所の隅々を照らす。
 一日は夜を経て太陽が昇る度にあたらしく生まれ変わるというのに、自分は古びていく一方だ。ふと撫でた肌は乾燥し、顎にはうっすらと髭が生えていた。
 ありありと時が体へ刻まれていく。古くなっていくことを意識させられる。東方の昔話のような、箱を開けるまでもなく気がつけばもう既に何もかもが過ぎ去っているのだろう。であれば幼稚な自傷ではあるが、まだ自分で選び取るほうが良いのかもしれなかった、と火を擦り付けた痕を見つめる。
 
 ざり、と足が床を擦る音がした。
 顔を上げれば、その赤い目がセティーを捉え、次第に近づいて来る。駄目だ、と警告が頭の中で鳴り響くもそのままゆるしたのは、侵入し返した己の舌が答えだった。いくつものの後悔が浮き上がっては雲散する。唾液は混ざり合い、顎を伝っていく。煙の余韻を渡し、ふたたび苦味と共に戻り、その薫りは濃厚なものとなって鼻腔を通り過ぎる。まるで相手をこの汚れで染めあげているかのようだ、と胸がちりついた頃、ようやく唇は離れ合う。
「言っておくがここは一応外だぞ、ジェイド」
「軽率だったことは認める」
 苦い、と小さく呟かれた声に悪びれた様子はなかった。
「こんなもの好き好んで吸うやつの気持ちがわからん」
「……受動喫煙のうちに入るんだろうか、これも」
「だとしても、自己責任だな。俺の」
 微かに口角が上がり、ジェイドはどこか得意げだった。まだ濡れている唇をそっと舐めればどこかほの甘い。程々にしておくべきだ、とセティーは思った。気が緩めば垣間の交錯に溺れてしまう。己を律し続けなければ、たちまちに汚泥そのものと成り果ててしまう。
 額に散らばる前髪をかき分け、着崩れしたシャツを整える。そして仕事場に戻り、残りの作業を片付けて、数ヶ月ぶりに帰宅して熱いシャワーを浴びよう。その後は清潔なシーツで覆われたベッドでたくさん眠って、そしてもう一度ジェイドに会おう。その時になれば、自ずと余裕が蘇るはずだ。
 ひとまずの別れを告げようと声をかける前に、腕を掴まれる。
「散歩の続きに付き合え」
「え?」
「今は本格的にツーリングはできなくとも、多少の運動は必要だろう」
 ゆらぎ、沈黙する。適当に言葉を探し、断るべきではあったが、しかし腕から伝わるこの温もりから離れ難かった。容赦のない光が今度こそ欺瞞を溶かそうとも。
「遠くへは行けないが」
「それでもいい」
 そう言い、ふたたび朝日の下へ発って行く。腕を引くその姿を眩さが覆い、照らされているはずなのにまるで光を発しているかのように彼は輝く。やはり目に染みて、今度こそ流れ出た涙をそっと拭い、一歩踏み出した。
 朝の日差しが夜の余韻が残る身体を刺し、貫く。しかし、悪くはなかった。

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