夜の共犯者、方角は朝
時刻は深夜帯を刻み、窓の向こうの景色も暗く染まっている。大体のものが眠りに着き、それ以外のものは半ば夢の旅路のようにまどろう時間。今夜のセティーはやはり後者であった。日中の疲労が瞼に滲み、今にも眠りへ誘われるほどの睡魔に抗いながら、デスクモニターの画面に齧りつく。
違法ドラッグ服用者が一般市民に危害を加える事件がエルジオンの各所で発生した。捜査の過程でそのドラッグがとある組織の資金源となっていることが判明し、重大性を鑑みた司政官の判断により、捜査権はEGPDからCOA預かりとなった。それに伴い、セティーも捜査に召集されることとなり、ここ半年は本事案にかかりきりであった。
ドラッグの製造拠点と想定される、廃道ルートのとある一角を映した画像がぼやけて見える。資料の文章も同じく霞み、こちらの問題かとセティーは息を吐く。
召集以降、捜査はもちろん資料作成や各方面への手続き、組織内の根回しに時間を費やし気づけば深夜であったことは珍しいことでもない。今も夜遅くにオフィスから退勤し、休むでもなく自宅で業務を続けている。褒められた働き方ではないのは理解している。だが、とセティーは乾燥し始めた肌に触れ、眉間に皺を寄せた。
中途半端に現場を取り押さえたところで捕まるのは末端ばかり、中枢の人間を捕捉しなければ何事もなかったように続くだろう。であるからこそ、手抜かりなく情報をかき集め、最善の捜査を行わなければならない。漏れた箇所から、関係のない一般市民が犠牲になることも何らおかしくないのだ。漏れ出る穴を塞ぎ、確実に根幹を叩く。そのためには悠長なことなど言ってはいられない、少なくても今の段階においては。
「セティー、休憩の時間です」
「ああ、忘れていた。ありがとう」
横で情報収集を行なっていたクロックの言葉にセティーは頷く。
チェアから腰を上げ、軽く伸びをすればいやに軽快な音が身体から鳴る。体の関節が錆びついている。
ふと、香ばしい香りを嗅ぎ取った。焙煎した珈琲の匂い。まさかな、とセティーは自室の扉を開けリビングへ向かえば、最低限の照明の下で珈琲の抽出を腕組みしながら待つジェイドがいた。横にレトロが旋回している。
「起きていたのか?」
日が変わる前に就寝することが常であるジェイドが深夜まで起きているのは珍しいことであった。やはり眠いのか、その目蓋は眼の半分を覆っている。
「たまには夜更かしもいいだろう」
「寝られる時に寝るべきだと思うけどな、俺は」
「ボクもそう言ったんだけど全然聞かないんだよ〜」
あまりにも眠そうなジェイドにつられ、セティーも再び眠気に誘われる。今、この誘いに大人しく降伏しそのまま意識を手放せたならどれほど心地よいだろうか、と夢想する。恋人である目の前の男を抱き締め、肌から伝わる平均より少し高い体熱が浸透し、輪郭を超えて混ざり合う。
しかしまだその時ではない。やるべきことがある。甘やかな夢想をあくびと共に手放し、代わりに漂う芳ばしい珈琲の香りを吸う。抽出された滴のリズムは徐々に間隔が空き、波紋もなだらかになる。頃合いを見て、ジェイドはドリッパーをゆるく振り、コーヒーサーバーから取り外す。そして深い色の珈琲をマグカップに注ぐ。珈琲から視線は外さないまま、ジェイドが訊ねる。
「まだ仕事か?」
「ちょうど山場なんだ。久しぶりに会えたのにすまない」
「お前が謝ることではないだろう。だが、仮眠は取ったほうがいい」
「一度目を閉じれば最後、昼まで起きない気がする」
「ああ……」
気の毒そうな声色でジェイドは珈琲を飲む。重たげな目蓋は徐々に開かれ、冴え渡る赤色が立ち現れる。そこに閃きの色を認めた瞬間、背を向けたジェイドは食器棚を開いた。取り出したのはセティーのマグカップ。キッチンに置き、湯を注ぐ。先ほど使用したコーヒーサーバーとドリッパーを軽く洗うと再びセットした。
せっかくだから淹れてやる。
そう言ってジェイドは豆をドリッパーに入れる。砂地のように細かな粉の上に再度沸騰させた湯を注げば、中心に窪みが生まれた。粉の高さまで湯を浸し、数秒蒸らしてからさらに湯を注ぐ。慣れた手つきにセティーが感心していると、ソファで座っていろと言われたのでおとなしく従う。
「一応、浅煎りだ」
ほどなくして、珈琲を手渡される。空から垂らされた暗幕よりは薄い水の色。深煎りが好みのジェイドにしては珍しく、セティー自身も深煎りをチョイスすることが多いので新鮮に感じた。口をつけ、苦味と酸味が口内に流れる。そこに隠れたかすかな甘みが舌を包み、安堵をもたらす。
揃いのマグカップに口をつけたジェイドと目が合う。下瞼の肉が微かに膨らんでいる。飲み干したことを確認しマグカップを回収する。そして、セティーの上体を横に倒すとブランケットを上にかけた。床に下ろしていた足もレトロとクロックに持ち上げられ、ソファはたちまちセティーの仮眠用となった。
「おそらく三十分後には自然と目が覚めるはずだ。まだ眠っているようなら、俺が起こしてやる」
「ジェイドも寝ていたらボクがちゃんと起こすからね」
「私も見張っています。ポンコツでは不安なので」
三人の像はぼやけ、一人の人間と二つの球体が視界に滲んでいく。
「みんな、お手柔らかに頼む」
今度こそ眠りの誘いに乗り、暗幕は落ちてそのまま意識を手放す。
今より先の時間にあたる未明を映した珈琲は体内へ溶けた。同じ未明になり、やがて朝となり先を越す。柔らかくなった豆の粉。砂。裸足の足を受け止め、波が消し去る。日が登り始め、海浜を照らす。さざなみが鼓膜を心地よく撫でる。反射し、まばゆく光る海を隣の男が眩しそうに見つめている。柔らかな白髪は朝日を吸い込み、白く燃えている。ああ、次に行くとしたら海がいい。ツーリングで後ろに乗せて、静かな海へ一緒に。じきに覚める夢の中でセティーはひとつ目標を立てた。前に進むための、ささやかな、しかしいかなる荒波でも船乗りたちに進むべき方角を指し示す羅針盤のような。